屋敷の中が薄明るいのは、外の炎が大きくなっているからだ。
微かだが片倉の耳に、老若男女入り交じった多彩な悲鳴が届く。きっと己の旧知の者や、気の置けぬ者の声も混じっているだろう。
「…辛くは、ござらぬか」
辛いか?そんなもの辛いに決まっている。だけど頭に濃い霧がかかっていて、感情の一切を思い出すこともできない。 わかるのは、自分がまだ生きていることと、のし掛かる自分より壱弐も若い男の重みだけだ。肉が沈む度に新しい鋭痛が生まれる。 真田が怖ず怖ずと事を進めるので、不要な時間ばかりが過ぎていく。
「ああ、…たまらぬ」
真田が熱に浮かされて呟く。焦がれて焦がれて焦がれ続けた思い人の熱に、自らの熱で触れているという現実の輪郭が、腰を進める度に色濃いものになっていくのに真田は身震いした。 陣羽織の隙間から覗くこの世のものとは思えぬほどに妖しい腰が、真田の動きに合わせて引き攣れて、更に彼を煽った。これが、陶酔というものなのか。
「…貴殿の腰は本当になまめかしい」
今抱いている男の腰は間違いなく神が創り上げた最高のものだと真田はそれを撫で上げながら思った。 どの角度から覗いてみても、触れてみてもまるで欠陥というものがない。その罪深さに何度目か知れぬ溜息を吐いて、真田は更に深く腰を進めた。
片倉はもう抵抗を止めていた。不甲斐なさ愚かしさ屈辱絶大な敗北感、それ以外の雑多な負の感情が収斂して、ただの黒い靄と成り、片倉の有り余る筈の腕力をも封じ込めていた。興味はどのようにして自害を試みるか、その一点にのみ注がれていた。
「罪深い御方だ」
真田が腰を突き上げる。浅ましい音があらぬところから洩れる。真田は其れに恍惚とし、片倉は不快感に眉を顰めた。屋敷は片倉の愛した大地や空が囂々と焼かれていく音と隔絶されたしじまに包まれていた。いっそ自分も焼かれて仕舞えばどんなにか楽だろうかと片倉は思った。 それすらも許されぬ程に、自分は真田の言う通り、罪深い人間だったのだろうか。地獄に墜とされる程の大罪をしでかしてしまったのだろうか。得心のいく罪の名を片倉は欲した。
「…片倉殿?」
何か雫の垂れる音が聞こえ、真田が音のする方を片倉の背越しに見ると、床に真新しい血痕が付着していた。這いつくばる片倉の丁度口元に、赤い血が滴り落ちている。 ぐいと顎を引いて此方を向かせると、その血は片倉の口元から溢れ出ていた。他でもない彼の鋭利な白い歯が、柔らかな舌を突き刺していたのだ。強烈な痛みに美しい顔を歪めている。
「何をなされておられるのです!」
真田は一旦行為を中断し、片倉の身体を反転させ仰向けにした。尚も舌を噛みきろうと試みる片倉の口を無理矢理に開かせ、応急的に自分の腕を噛ませた。ぎりと歯が皮膚を食い破り、真田の血と片倉の血が混ざり合う。
「貴殿を傷つける者は、喩えそれが貴殿であっても許さぬ」
真田は毅然と言い放ち、先程無造作にとりさらった己の鉢巻で片倉に轡をした。多少手荒い手段ではあるが、致し方ない。彼が傷つくところなどとてもではないが見ていられなかった。片倉の開いた瞳孔は何かを必死で嘆願しているように見える。それが何なのかを真田は知ろうとしなかった。
「何故そのように、ご自身を貶めるような真似をなさるのです」
真田の手が慈愛を込めて片倉の傷のある方の頬を撫でる。元より質問の答えを聞く積もりはなかった。この御仁がご自身を卑下するのは、この国の所為に相違ないと真田は確信していたのだ。此所には彼を慕えども、慈しみ愛でる者など誰一人としておらぬのだ。皆彼に軍神としての、国を支える者としてのよき働きしか求めていない。彼には頼れる者も、甘えられる者もいないのだ。ああ何と嘆かわしいことであろうか。だがそれも今宵までだ。忌むべきこの国を見る影もなく焼き尽くし、彼の人生から跡形もなく滅却する。そうすれば彼は、救われる。もう自分を見失うことなど金輪際させぬ。
「片倉殿…」
真田は彼の頬の傷に恭しく口づけた。びくりと片倉の外れたままの肩が弾む。まるで生娘のような反応に、真田の熱が一回り大きく成長した。
「どうか、某に全て委ねてくだされ」
片倉の脚を開き、真田はもう一度猛った熱を彼の中に預け切った。何度か動かしただけで、張り詰めていた若い熱は弾けてしまった。伽は初めてではないが、儀礼的な今までの其れからは想像も及ばないほどに、幸福感と満足感に充ち溢れていた。酔いしれるほどに。
事が済み、暫く余韻に浸ってから、真田は轡を外した。血は止まったようで、白い歯に映える赤い血の名残が見えるだけであったので、真田は安堵した。
「さな、だ、聞け」
覚束ない口ぶりで片倉が久方ぶりに言葉を発する。
「俺のことは、どうしたっていい、お前が望むなら、どこへだってついていってやるし、好きな時に殺せばいい」
「貴殿を殺すなど、ありえぬことを」
「だから、頼むから、奥州から、政宗様から、手を引いてくれ」
真田は頬が引き攣るのを感じた。と同時に、未だこの地に、暗愚な君主に執着するしかない重臣としての彼という存在に大きな憐憫を感じた。大層な自己犠牲の精神、忠義を護り通す見上げた家臣だ。しかし、真田が欲しているのはそんな男ではない。ありのままの片倉小十郎という男が欲しいのだ。重臣としての片倉小十郎には、奥州と共に死んで貰うしかない。
「お可哀想に」
真田の放った深い憐憫の言葉に、片倉は唖然とした。一体自分の何に情けを掛けているのだ此奴は。そもそも此奴に哀れむなどという人間的な感情があったのか。そんなものがあるのならば、初めからこんなおぞましいことをするはずはないのに。
「貴殿を呪縛するものに、未だ気付いておられぬのですね」
さもありなん、呪縛と信仰は紙一重である。抜け出せぬ呪いならば、それを受け入れ昇華し、己が存在意義にまで祭り上げるしか生きていく手立てはないのだから。片倉ほどの聡明な男が根底にあるその事実に気付かない道理はないので、十中八九気付いてしまった後の恐ろしさを危惧して潜在的に無視しているのだろう。蝕む呪いに気付いても、呪いは解けない。第三者が介入して引き剥がしてやらない限りは、真の解放は得られないものだ。
「されどそれも今宵までのこと」
外の火焔は最早悲鳴すら焼き払おうとしていた。家や人をたらふく餌にして、火という魔物は立派に成長し、とうに独歩を始めている。お膳立ては済んだ。 真田は緩慢と着衣を始め、置き放していた二槍を手に取った。
それを見て片倉はいよいよ動けぬ筈の四肢を奮い立たせ、何とか起き上がったが、力ずくで鬼を止めるまでの体力は何処にも残っていなかった。
「やめろ、」
「さぞかし今はお辛いでしょうな。しかしそれも瞬く間のことにございまする」
「やめろ、真田!」
「見ておられぬと仰るのならば、少しの間眠って待っていてくだされ」
言うなり真田は、這う片倉の鳩尾目がけて踵を落とした。が、という音を発して片倉は敢えなく床に頽れ、意識を飛ばした。屈み込み、失神した片倉の形の良い頭頂を撫でながら、真田は幸福な笑みを漏らした。もうすぐ世界が手に入るような気がしていた。