刺すような痛みに片倉は目を覚ました。
随分と目覚めの悪い朝だと呆けた頭で思いながら、先程までのことは全て悪い夢だったのかと安堵もしていた。しかし冴え始める感覚が片倉の横臥している現実を否応なく悟らせる。 固まり始めた血の匂い、人肉を焼く焦げ付いた煙、頬の下の固い板。自分は未だあの地獄のただ中に居る。できることなら素知らぬふりを続けていたかった。外れた肩にも貫かれた関節にも力が入らない。立ち方すらもう忘れて仕舞った。
「お目覚めになられたか、片倉殿」
いやに耳元ではっきりと聞こえる虎若子の声に、片倉は吐き気がするほどの嚴悪を覚えた。
「あちらをご覧くだされ。貴殿の主をお連れした」
声の通りに見やると、確かに座敷の中央に疑いもなく片倉の、唯一無二の君主が鎮座していた。 何度となく主が遊びにやってきた広々とした座敷は、今は燃える炎の橙にのみ染まっている。 主の細身も同じ橙をしているのは、彼がいつもの蒼い装束ではなく、白い着物を纏っているからだと気付いた。
「政宗様!」
呼びかけても、主は凛とした瞳を向けるだけである。白装束に、膝の横には脇差という状況下にあっても絶望の色を汲み取らせない気概は流石だった。
「青葉は落ちた」
主は淡々とした口調でそう言った。その後ろには帯刀した派手な忍が立っている。
「伊達政宗は奥州筆頭として身命を以て此に報いる」
「なりませぬ、政宗様!落城の非は全てこの小十郎にあり、どうかこの首で償いを」
「No Way.お前は生きろ、小十郎」
どのようにして真田に誑かされたのかは知れぬが、主の瞳は清流のように澄み切っていて、待ち受ける不当な死に何の迷いも見受けられなかった。
「立派にございまする、伊達藤二郎政宗殿。これぞ武士の誉れ、天晴れな死に様。貴殿のような好敵手には、今生では二度とお目にかかれますまいて」
真田が心からの賛辞を向ける。その面を拝むことは這い蹲ったままの片倉には出来ないが、不気味なまでの純粋な表情を浮かべていることだろう。嗚呼、何故このような仕打ちを。一体何故。未だ若く、未来ある我が主を斯様な場所でむざむざと死なせるなど。何処で間違えてしまったのか。自分が真田に寝返ってでもいればよかったのか。それとも独断で甲斐もろとも討っておけばよかったのか。どれも正当なようで、見当違いのような気もした。
「片倉殿のことをお案じであろう、政宗殿。貴殿の腹心は忠誠を重んじられる御方だ。貴殿を失えば自我を見失い錯乱してしまうかもしれぬとお考えではないか」
死に直面している男は何も言わなかった。ただ射るような目で己の右腕を見据えている。 片倉はその目から逃げたかった。生きろと言う主の最後の命に従いたくはなかった。だがそれに従うことこそが、生涯を賭けて付き従うと決めた自分にとっての砦となるのだろう。彼の代わりに死ぬことが許されぬ矮小な自分自身に叶えられるただ一つの想いとなるのだろう。それは余りに残忍な真実だった。
「政宗殿の胸中を察すれば、片倉小十郎殿に、某への忠誠を誓って頂くことが最も望ましい形かと」
その言葉に片倉は呼吸の作法すらも忘れかけた。
「…狂ってやがんのか…!」
「某も斯様なことはあまり気が進まぬが、某とて武人の端くれにござる。敵とはいえ政宗殿には多大な恩があり申す。心置きなく冥土に逝って欲しいのでございまする」
さも正論を振りかざしているといった語調に、片倉は憎悪が沸騰するのを禁じ得なかった。 この糞餓鬼、殺してやると強い想念を血走った視線と共に送れども、その想いの一筋ですら伝わる気配はない。主の双畔さえも、片倉に自分以外の男に忠誠を誓えと言いつけている。恐らく主は、幼い頃から片時も離れなかった家臣にどんな無様な形であれ生きて欲しいと願っているのだ。彼もまた若いから、その祈りがどれほど惨いものかを遂に知りえない。 己が忠誠を拒んだとすれば、主は切腹さえも許されずに、背後の作法も碌に知らぬ草が日の本一の誉れ高き武士を我が物顔で屠ることになるだけだろう。救済の門は閉じられた。屋敷が襲撃された段階でもうわかっているのだ、為す術はどこにもないと。それでも片倉の口が容易に開くことはなかった。此を言ってしまえば主は死する。そうして自分は自分を永遠に失うだろう。
「……誓う」
ようよう口にした誓いには何処にも覚悟などなかった。走馬燈の如く、奥州で過ごした温かくも激しい日々が蘇り明滅する。この美しい思い出が最後の記憶となるのならば、幾分か次の世にも期待できるというのに。
「お聞きになられたか、政宗殿」
主は一度頷き、固く瞼を閉じた。
そして最後の息を吸いこみ、白刃を自らの腹に突き立て、一文字に裂いた。 苦悶の表情すら浮かべず、麗しい相貌のままに主は死んだ。その雁首は忍にしては心得た作法で以て落とされた。
片倉は一瞬も見逃すまいとして眼を開き、全てを網膜に焼き付けた。全ての動きがひどく遅く見え、それはどこか現実味を欠いていた。気付けば噛みしめた唇から新しい血が滲んでいて、鉄の味だけが生々しかった。片倉は確かに己の魂が腐るのを感じた。
「…さって、これにて奥州制圧完了っと。旦那、右目を片付け次第勝ち鬨を」
「勝ち鬨なぞ上げる必要はない。斯様な凍てついた地など要らぬ、このまま朽ちるのが似合いだ」
痴れたことを、と真田は溜息を吐いた。しかし常ならば機敏なはずの猿飛は全く訳が分からないという表情で、愚鈍に真田を見ているのみだった。
「どういうことだよ」
「佐助、お前には申したであろう。俺が手にしたいのはこの御仁だと」
真田は固い床に蹲ったままの片倉に視線を落とした。荒い呼吸のせいか、背が忙しなく上下している。心なしか平生よりも小さく、心許なく見え、真田はそれを労しく思った。
「…ちょっと待って。それは流石の俺様でも俄には信じがたいよ」
「お前がどう思おうが知ったことか」
「片倉の旦那を手に入れるためだけに、本当にそれだけのために、奥州を攻め落としたっていうのか」
「何度言えば分かる」
真田は苛立ちを隠すことなく猿飛に言い放った。普段ならば一度で理解する優秀な忍が、今夜ばかりは非道く使い勝手の悪い物に思えた。
「他の連中に示しがつかない」
「何とでも言えばいいだろう。報酬なら約束通り与える。一体何の不満があると申すのだ…ああもうよい。後は適当に隊を纏めて先に上田に帰れ。俺は片倉殿と話したいことがある」
これ以上何もお前に話すことはないといった風に真田は真っ直ぐ猿飛を見た。未だ何か言い足りなそうにしていた猿飛だったが、一つ大きく溜息を吐き文字通り天井裏へと消えた。
「片倉殿、お待たせを致しました。立てまするか?」
真田は膝を曲げ、片倉の強張ってしまった身体をゆるりと撫でた。しかし片倉は微動だにしない。随分と疲れさせてしまったようだ、と真田は申し訳なく思った。
「上田には馬を飛ばせば数日で着きましょうぞ。城に床を用意いたしますので、存分に静養を」
「真田」
片倉が言葉を遮り、力強い声音で呟いたので真田はぴたりと押し黙った。
だが次に放たれた思いがけない請願に、真田は心底驚いた。
「俺を殺してくれ」
ようやく片倉が伏せていた顔を上げた。埃と樹皮に頬は汚れていたが、凛とした意志がくっきりと現れており、そこには常の戦場で見る片倉が存在していた。
「何故そのようなことを…」
「頼む。情けを掛けてくれ」
「出来ませぬ!某が貴殿を手に掛けるなど、そのような惨いことは幾ら貴殿の頼みでも出来仰せるはずがない」
思わず感情的になった真田に、片倉はふっと笑い、宥めるような口振りで言った。
「お前に殺されたいと言ったらどうだ?」
ぞく、と背筋に甘美な電流が流れた。どうしようもなく焦がれた男が、その燦燦と輝く生命を誰でもない自分に差し出している。この世に数多ある腕の中で、真田の其れを選び、求めている。確かにとんでもなく甘い誘いだ。自分を選んでくれたことの至福に歓喜する一方で、その申し出を受け入れ切れない思いもあった。 彼は確かに自分を選んだ、しかしそれならば、自分と緩慢に生きることを選んで欲しい。 与えるのなら、死よりも生を与えたい。誰かを生かしたいと思ったことなど真田にはなかった。 より多くの武功を挙げるためだけに動いてきた自分が、他人を幸せにしてやりたいなどと思うのは、この世に於いて彼だけなのだ。だからどうしても目の前の男を殺せない。
真田はかぶりを振った。片倉の手を握り、精一杯の優しい声で囁く。
「生きて欲しいのです。某と共に」
それを聞くと片倉は、そうか、とだけ言った。
「…お前と生きることが…俺の罪か」
それきり片倉は口を噤んだ。罪、とは何のことだろうと真田は疑問に思ったが、今は何も聞くまいと只片倉の冷えた身体をさすった。どうあれこれで、全てはうまくいったのだと確信すると、真田は湯に浸かったような心持ちがして、早く帰って旨い飯を相伴したいと幼子のようなことを思った。