「幸村様は本当におやりになるおつもりなのでしょうか」
采配の確認を終えた後、忍隊の一員が長である猿飛にそう問うた。問われた長は愚問に顔を顰め、「ああ、だろうね」と素っ気なく答えた。
白状すると猿飛自身、彼の主がどこまで本気なのかなど分からない。 分からないが、ここまで大がかりに兵を動かし、お世辞にも智将とは言えない主が緻密な計画を練ったのは今回が初めてのことだった。 その事実を客観視すれば主がよもや今になって、好敵手を屠れないと言い出すことはないだろうと猿飛は思った。 しかし配下の者からすれば、敵に闇討ちをかけるなど姑息な手段を取ることなどこの軍においては前代未聞であるので矢張り面食らっているようだ。 されど悲しいかな忍の本領が発揮できるのもこういった戦法である。名のある奥州の将の首を獲った者にはそれ相応の報酬を考えているとまで真田は言っていた。いわばこの奥州制圧は、真田忍隊にとっての檜舞台なのだ。
だが唯一、けして殺すなと命じられている例外的な将がいた。その男の武家屋敷の直ぐ上に、隊長級の腕前を持つ忍一派が群れをなして来たる時を待っていた。
「解せませぬ。何故よりにもよって、生かしておけば一番厄介な男を討つなと命じられたのでしょう」
竜の右目と謳われる名高い智将の忠義心が、人一倍強いことは天下に知れ渡っている。 奥州を焼き払おうものなら単身でも仇討ちに来るような男だ。しかも強い。 腕の立つ忍衆を片倉邸に集めたのも、彼の命を数人掛かりで奪うためだと誰もが思っていたのだが、主の命は片倉以外の屋敷の者を全員屠ることだった。
猿飛は出来ることなら、一番に片倉の首を獲ってやりたかった。勿論納得いかずに猿飛は真田に直接真意を問うた。 その時返ってきた答えを猿飛は自分と同じ疑問を抱く部下に伝えてやった。
「餌にするんだと」
政務を終え屋敷に帰還した片倉は、侍女が戸を開けるなり流れ込んできた血反吐のような殺気に中てられそうになった。 その一瞬がのっそりと過ぎた後、目の前の侍女が背から大量の血飛沫を上げて崩れ落ちた。刀を構える間にも、屋敷中から断末魔の悲鳴が響き渡り、濃い血の匂いがあっという間に清潔な屋敷に充満した。
(敵襲か)
片倉は抜刀し、踵を返すことをせずに邸内へ向かった。
この手際、複数からしてどこぞの透波か。迎え討つのは分が悪いが、恐らく屋敷の外にも複数待ち構えているだろう。ならば此所で食い止める。 屍だらけの地獄のような光景を呈す自宅で片倉は論理的に判断し、屋敷の中央で立ち止まった。
ところが予想に反して攻撃の手はぴたりと止んだ。それどころか気配すらない。 どこから攻撃の手が伸びるか分からない状況ではあるが、それに対応する瞬発力は心得ている積もりだ。地の利は此方にある。そう思って片倉は愛刀を構え直した。
すると、背後から足音が聞こえた。忍、ではない。彼らは足音をけして立てない。 ぎしぎしと血痕だらけの床板が軽快に軋む音と、甲冑が擦れ合う金属音。 片倉は背を壁に向け、侵入者と対峙する形を取った。
「片倉殿」
「…真田幸村…」
予想外の人間の登場に一瞬驚いた片倉だが、手練れの忍衆の存在で合点がいった。
疑念の余地もなく、首謀者は眼前の年端もいかぬ主の好敵手である。
正面突破を常道とする血気盛んな若者が、よもや闇討ちなど卑怯な真似をするとは俄に信じがたかったが、この状況では言い訳もできまい。 一体何を血迷って斯様な愚行に走ったのか、気にはなったがそんなことはどうでもいい。 理由が何であれ今片倉がすべきことは、虎若子と呼ばれる武将の首を獲り、青葉城落城の謀を阻止することだけだった。
「色々と聞きてぇことがあるが、そんな悠長なことは言ってられねぇようだ。残念だぜ、一度ゆっくり酒を飲み交わしてみてもいいと思ってたが、そいつは今生ではお預けだ」
「誠にござりまするか。是非一献傾けとうございまするが、それは今宵の野暮用が片付いてからにしましょうぞ」
「……構えな。尾張の魔王よろしくてめぇの髑髏でうめぇ酒を飲ませてもらう」
片倉の体躯と同じく、すらりと肉付きの好い刀に蒼い電流が走る。彼の冷えた双畔からも同じ色が迸り、整った顔立ちに艶やかだ。真田はその美麗に酔う。嗚呼今宵は特にお美しい。
「貴殿の邸宅を踏み荒らしたこと、逆鱗に触れて当然のことと存じまする。非礼を何とぞお許しくだされ」
「寝言を吐くな!」
激昂した片倉は真田に二の句を次がせず、刃を翳した。それでも真田は槍を抜かず、腕一本で片倉の得物を止めた。
「ナメてんのか糞餓鬼…!」
「某は餓鬼ではありませぬ。しかしながら貴殿ほど成熟した男ではない。それ故斯様に下等な手段しか取れなかったのです」
自らを劣ると言いながらも、真田の燃える手は黒龍を封じ込めていた。今まで片倉が見越していた真田幸村の力量とは比べものにならぬぐらいに圧倒的な力に、片倉は一度刀を退けるしかなかった。相変わらず木偶のごとく突っ立っている真田に、再び攻めようと片倉が一歩足を踏み出したその瞬間、何かが空を切る音がして膝裏に激痛がふたつ走った。油断した、と悔いる間もなく片倉の脚は上半身の重みに耐えかねて、頽れた。
「佐助!!」
異常なほど冷静だった真田が目を剥いて背後の存在に怒鳴った。
どうやら赤毛の忍頭が真田にとってはいらぬ世話を焼いたらしい。
しかし土壇場でいつまで経っても得物を抜きもしない主を見ていて、心中穏やかでいられるはずもなかろう。
自ら仕掛けた修羅場において体裁も随分と悪い。片倉は肉を貫く苦無の熱に焼かれながら妙に納得していた。
考えの読めぬ敵の言動に惑わされるよりは、痛みの方が幾分具合もよかった。
「片倉殿、大事ないでござろうか、ああ、血が出ておりまする」
駆け寄ろうとした真田の顔面を狙い、黒龍を振り仰いだが、そこには刀の描いた美しい曲線の軌跡の残像が映っただけであった。 敏に背後に回られ、羽交い締めにでもされるかと思ったが、真田は片倉の左手から刀を叩き落とし武器を奪っただけだった。 そこでようやく、片倉は真田に殺意がないことを悟った。
「てめぇ、何が目的だ」
滴る血を意にも介さず立ち上がろうとする片倉を、真田はあくまで優しく制した。痛みに耐え、脂汗を流しながらも、尚も凛とある片倉の姿に、真田は得も言われぬ艶美を感じ、覚えず嘆息した。
「毒は塗られておらぬようです。安心いたした…度重なる無礼、誠に申し訳のうございます、片倉殿」
「質問に答えやがれ、何が目的なんだと聞いている」
真田は深々と刺さった、愛しい身体を傷つけた忌々しい苦無をゆっくりと引き抜く。
歯を食い縛り、ぐうの音も出さぬよう声を押し殺す片倉の姿態は非道く官能的だった。恐らく止めろと怒鳴りつけたいのだろうが、口を開くとそれよりも先に唸音が出てしまうのだろう。 筋肉に埋まった苦無が抜ける刹那に、微かだが片倉の背が引き攣る。 不謹慎だが、そそる、と思った。何の計略もなく、自分を煽り続ける手負いの男が少し憎く、それでいてとても愛おしかった。
「目的、にございまするか」
「…ぐっ」
片倉が開口する直前に、もう片方の苦無を今度は一気に引き抜いた。予期せずもたらされた鋭痛のお陰で片倉は言葉の代わりに呻きを上げる羽目になった。
「貴殿にございまする」
「…なに?」
「全て貴殿を手に入れるためのことにございます」
振り向いた片倉は困惑を隠しきれない表情をしていた。 今夜は色々な顔を見せて頂ける、と真田は嬉しくて顔が綻んだ。それを見て片倉の表情は益々混迷の色を深める。
もっと沢山の顔を見てみたい。その麗しきお顔が哀しみ、嘆き、笑い、眠るところを全て、あますところなく見知りたい。誰かに見せる顔ではなく、俺だけに見せる顔を知りたい。奥州など本当は要らぬ。全ては彼の為の茶番なのだ。
「武田は豊臣とでも手を組んだのか」
「まさか…何故そのようにお考えになるのです?」
今度は真田が困惑する側になった。本当に解せないといった表情で片倉を見つめる瞳に嘘偽りはなく、益々片倉は頭を抱えた。軍師として自軍に引き抜きたいという意味ではないのだとしたら、一体何だというのだ。
「某は、貴殿を手に入れたい。…片倉殿」
真田はこの場に凡そ相応しくない、ひどく純朴な生命の輝きに満ち満ちた丸い瞳を片倉に向けた。真田は正面に回り込み、膝に置いていた堅い握り拳を解きほぐし、慈しむようにその手を握った。
「お慕いしておりまする」
悪い冗談だと片倉は思った。そんな冗談を言うためだけに、何の罪もない、ただ屋敷に仕えていただけの者たちを惨殺したのかこの男は。怒りを通り越し、呆れが生じた。
「貴殿を想うとどうしようもなく苦しくなり、呼吸の作法すら忘れて仕舞う」
片倉は言葉を失った。この純真な瞳には見覚えがある。確かに真田の言う通り、これは恋をしている者特有の瞳だ。その事実に片倉は身震いした。冗談であるならばまだ良かったのに、これでは最早救われる道がないではないか。本当に自分を手に入れる為ならば此奴は何も厭わない。好敵手である我が主を屠ることすら。 どうにか、この場で仕留められる手立てはないのか。 必死に考えあぐねていると、真田の腕が片倉の冷えた首にまとわりついた。片倉はその行為に非道い嚴悪を覚え、何とか引き剥がそうと藻掻いたのだが、想像しえない程の腕力に囲い込まれて思うようにならない。片倉は自分がとても非力な存在に思えた。
嫌がる片倉を抑えつけながらも、真田は迫り上がる甘い熱に身を焦がしていた。かつてないほど近くに、何度も思い描いた彼の身体が在る。隔てる甲冑が邪魔で仕様がない。もっと直に、彼の熱に触れたい。犬のように浅ましく興奮するのに比例して、若い熱の塊が下腹部を押し上げる。恥ずかしく思ったが、愛しい人を腕に抱いていてこうならない方が不自然だと真田は自らに言い訳した。とりわけ彼は若いのだ。
「離しやがれこの外道が…!」
片倉の熱っぽい吐息が、直に高揚する胸にかかる。嗚呼もう取り返しがつかない、一歩も後には引けない。上田に連れ帰って、静養して頂いてからと思っていたのだが、このままでは二進も三進も行かぬ。不覚、という二文字が真田の逸る脳裏に深々と彫られた。それを合図にして、真田はそのまま片倉の背を床に押しつけた。
「てめぇっ…!ただで済むと思うなよ!」
「順を追わぬ非礼をお許しくだされ、片倉殿」
真田が、暴れる片倉の胴に馬乗りになる。床に縫い付けられた片倉は、辛うじて空いている腕で真田に殴りかかるが、如何せん体勢は真田に利があるので、楽楽と躱されてしまう。真田が悲しげな瞳を向けたかと思うと、ごり、という鈍い音とともに肩ごと地に落とされたような感覚に片倉は襲われた。両の肩が外されたのだと気付くのにも、痛みが邪魔をして時間が掛かってしまった。
「っ…!!」
「片倉殿、申し訳ございませぬ、本当に申し訳ございませぬ」
痛みで霞んでよく見えなかったが、真田は今にも泣き出しそうな顔で真摯に謝った。肩ぐらい幾らでもくれてやる、だから今すぐ奥州から手を引け、と片倉は言ったつもりだったが、どうにも言葉がうまく出ない。咽喉がからからに乾いて引き攣る、これは、恐怖という奴なのかと片倉は思った。命が何時散るとも知れぬ惨憺たる戦場においても一度も感じたことなどない恐怖が、明らかに格下だと踏んでいた青臭い武人の手によって片倉に植え付けられている。本能が煩く騒ぐ、嫌だ、怖い、と。殺されるのならこれまでとまだ覚悟も決められるが、例えばこれをやり過ごしたところで、先には一光さえ見えない漆黒の闇しか待ち受けていないのだ。 腕と脚の自由を奪われ、為す術もない無様な自分を、神がいるなら今すぐ殺してくれと片倉は嘆願した。