あんたの犬になる夢を見た。
夢の中で俺様は本当に、名実ともに正真正銘あんたの犬だった。
忍は犬畜生と同然の存在だとかそういう意味じゃないよ。つまり俺は姿形そのものが犬で、人として最低限の二足歩行すらできない存在だったんだ。
一度も呼ばれたことはないのに、あんたは俺の姓でなく名を呼んだ。するとどうだい、俺様はわんと一声元気に鳴いて、あんたのもとへ足取りも軽く駆けていったのさ。
なかなかどうして、夢の中では俺様も可愛いもんだろう。
忍はそんなことを暢気に言った。
小十郎は憮然とした態度で戯れ言にただ黙然と耳を傾けた。
正に僻事と呼ぶに相応しい男との関係に睦言は暗黙の内に厳禁とされてきたのだが、今の夢物語はどうもそれに類するような気がして、何となく耳を塞ぎたくなった。
忍の其れはどこか責めるような口調にも聞こえる。
名を呼んだことがないことについてなのか、それともいつまでもずるずると、謀反ともとれるこの関係を引き摺っていることなのかは図り知れぬが、
それでもどうにかこうにか、自分を責めようとしているのだと聡い小十郎は思った。
「いっそ本当に、犬になれたらいいのにね」
忍は朝を待たずに帰る。今ももうやって来たときと寸分違わない格好を整え、未だ褥から出ていない小十郎に背を向けている。 月明かりが逆光になって、忍の後ろ姿は散らばる闇に半分融けていた。
「そいつは如何かな」
犬猫になったところで、此奴は上田で待つ主から離れることはできないだろう。 それどころか思考を失えば、今よりもっと従順に付き従うかもしれない。だからその夢は意味がないのだ。 どうしたって現状は変えられない。それが定めであるのだから。
小十郎はそういうことを言いたかったのだが、こういった場では、と言うよりはこの忍の前においては途端に口下手になってしまう。 しかし忍は此方を向いて、ふっと息を吐いて笑った。
「可愛いこと言うね、右目の旦那」
小十郎の気の利かぬ一言でも、容易に読み取ってしまう佐助は頭の切れる男だ。 それが妙に疎ましくも、気楽でもある。小十郎は突いていた肘を伸ばし、寝転ぶ体勢を取った。 動いた気配を感じ、忍は首を回し小十郎のだらしない格好を愛おしげに見つめた。
「他国の忍相手に、無防備すぎるよ」
「お前に俺の首が獲れるかよ」
「甘く見てると、痛い目見るよ」
小十郎は頭を上擦らせ、首元をわざと曝して見せた。 髪も着物も乱れきって、普段は一寸も見受けられない退廃的な寝姿が、佐助の感情を翻弄した。 己の前だけの姿とは言わずとも、男のこんな姿を見ることが許される人間は限定されているだろう。 平生との落差の大きさの所為か、ただ横たわっているだけなのに非道く色気がある。 差し出された喉元がたまに上下して、艶めかしい。誘われるようにして、佐助は小十郎にそっと近付いた。 この御仁は今自分が見ている風に、俺を見ることがあるのだろうかと佐助は考えたが結論が出る前に止めた。
「呼んだことはなかったか」
「…何?」
「名だ」
「ないよ」
あったら覚えてる、絶対忘れてない、とまでは言わずに、佐助は小十郎の乾いた唇を冷えた指でなぞった。 この唇が己の名の形に動くことを思うと、それだけでぞくりとした。
小十郎はそうだったか、とだけ呟き、佐助の指を舐めた。 指の主は一瞬ぴくりと怯んだが、後は小十郎の為すままにした。忍の指は無味だった。塩の味もしない。 血も無味無臭なのだろうかと小十郎は疑問に思ったが、さすがに噛みきって確かめるようなことはしなかった。
「…助平」
佐助が吐き捨てるように言うと、小十郎は口端を上げて指の半ばまでを口に含んだ。 堪えきれずに息を漏らした佐助を咎めるように、小十郎は歯を少し立てる。 お前も好き者のくせに、と目で語って見せた。それすら優秀な忍は見破って、違うとでも言うように指を引っ込めた。 五本の内の一本だけが唾液で月光に反射し、その箇所だけが全く別の生き物のようだった。
「ホント、馬鹿みたい」
「ああ、馬鹿だな」
優れた忍と、切れ者の重臣である彼らには痛いほどにわかっていた。彼らの行いが愚かであると。 今のようなちょっとした戯れも、こうして此所で会うことも、目を見て話すことも全てが愚かなことなのだと。 隙あらば殺し合うべき相手であるのに、一番無防備な状態をさらしあい、互いの生を享受している。 互いの国の利益の為に動くしかない存在同志が、たぶん損失しか産まない関係に終止符を打てずにいるのだ。 天下を目指すならば、彼らが向かう先は滅びしかない。 いの一番に捨てる荷は今睦み合っている相手だということは分かっている。 分かっているなら早く縁を切ればいいだけのことだ。 それでも忍は寒い此の家にやって来てしまうし、重臣は彼を受け入れてしまう。 何かを呪うならば、人に生まれてしまったことそのものだろうか。
「馬鹿だよねぇ、俺たち。本当に、馬鹿だ」
そう言って忍は横たわる男に口づけた。生涯を捧げられる主に恵まれ、給与以外に文句はないと言うのに、 一体何を求めるんだろうねぇ、と佐助はこっそりと自嘲した。
「本当に、嫌な御仁」
小十郎はそんな暴言に薄く笑った。
(この男の目がたぶん、この世で一番苦手だ)
自分の思ったことが全部筒抜けになっていると佐助はいつも錯覚してしまう。 そして随分気恥ずかしい思いをする羽目になるのだ。 反して小十郎も、佐助の諜報に長けた双畔が苦手だった。 少しも感情を読み取らせないものだから、これで最後だと思っていたとしても分からない。 それならそれでいいだろうと思うのだが、せめて別れの言葉ぐらいは、とも思う。ならば名前ぐらいは呼んでやれるだろう。
小十郎の大きな手が佐助の頬に触れた。 職業柄随分と細身の佐助の顔を、半分ほどに包んでしまう大きくて頼りがいのある手だ。 佐助はこの手が好きだった。この世で一番、とまではいかないが、少なくとも小十郎の持つものの中で一番好きだった。 この手に護られるものが羨ましかった。佐助は瞼を閉じて与えられる微量な温もりを頬に感じることに集中した。
小十郎は徐に起き上がり、閉じられた佐助の瞼に口づけた。 柔らかい眼球が、壊しても壊れそうにない忍の弱さを感じさせる。けして見ることのできない、忍の脆さ。 出来ることなら弱り切って動けなくなった彼を、自分なしでは息もままならぬほどに仕立ててみたい。 此奴の夢のように、名を呼べば尾を振って駆けてくるくらいに。
そんな痴れたことを考えていると、佐助がゆっくりと瞼を半分押し上げた。 考えを読まれる前に、小十郎は佐助の唇に己の其れを押し当てた。頬に寄せた手に、忍の固い手甲が重ねられた。
緩慢に唇を離し、少しだけ間を空けてから互いに苦手な相手の目を見つめ合った。 佐助は何となく可笑しくなって、頬を一寸綻ばせた。 小十郎もそれに倣い笑んでみると、どこか愉快な気分になって、ふと冗談を言ってみたくなった。
「朝寝でもしていくか」
「ふふ、…だめ。帰る」
帰ると言いつつも、佐助の手は頬の上の手に重ねられたままだった。小十郎は珍しく微笑んでいる。 でもそれはやっぱり不敵なものだった。つくづく優しい顔が似合わない男だ、と佐助はいよいよ可笑しくなって歯を見せて笑った。
「でも、もう一回してからでもいいよ」
意外な言葉に、小十郎はふっと吹き出してしまった。冗談か本気か、判別はつかないがそんなものは関係ないと思った。
「嘘は嫌いだぜ」
そう言って、小十郎は佐助の腕を自分の方に引き寄せた。
淀んだ月だけが、近く絶望に食われるであろう二人を哀れんでいた。