此の男が怖い。
ただただ純粋に怖い。
時折政宗はそんな風に思うことがある。 往々にして武田が何処かとやり合った後のことである。
落ち着いて考えてみると馬鹿らしい話なのだ。
己は奥州全土を束ねる伊達家が主、地位も年齢も真田より上回っている。
いつから付いたか判然としない二つ名さえ左様。
真田が己に勝るといえば体格と謙虚さくらいだろうか。
自分は六爪を翳す割には少しばかり細身であるし後者に至っては最早自ずから掃いて捨てた。
それでも、血を存分に浴びた後の真田の瞳には、おぞましく冷たい炎が宿っている。
生身の人間として、彼の双畔は恐怖だった。
きっといくつもの魂の断末魔を映しているからだろう。
恥ずかしい話、あくまで殿である自分と、敵を斬ることこそが生業の一武人である真田では、明らかに真田の方がより多くの人間を屠ってきている。
その血の澱を感じるのが好きでもある。
清廉潔白を盾にぶつけられる真田幸村の汚濁は、右目の位置にぽっかり空いた空洞にぴたりと嵌るようだった。
だが最近では、その穢れが以前とは比較にならぬほど多くなってきていた。
「政宗殿、政宗殿」
ああ、またこの目だ。
人より少し大きいから性質が悪い。
尾張の魔王を初めて見たときとはまた異なっているが、確実に政宗はこの目に射すくめられてしまう。
真田の睫毛が瞬くたびに、己を表象する全てが削がれていく。
人払いをした書院で、真田は時折猫のように戯れてくる。それ以上でも以下でもない。
ただ獣が懐いた人間にじゃれつくように、鼻を政宗の肩に埋めたり、時に甘く噛んだりするだけだ。
初めこそ訝しんでいたが、これも武田の流儀なのかと思えばすんなり得心がいった。
同じ日の本といえどやはり異国の者同士、相容れぬ文化もあるのだろうと。
真田にとっては自分の使う南蛮の言葉や渡来品は、理解しがたいものであるはずだ。
その宵も、真田はまた例によってじゃれついてきた。
ところが政宗には常時と違う何か禍々しいものが感じられた。
これも天から賜った才覚なのだろうか、ちょっとした気配や空気の流れ方の違いに政宗は異常なほど聡い。
とりあえずは為すままにさせておこうと、政宗は首にまとわりついてくる真田の腕を享受した。
南蛮ではこういう抱擁をhugというらしく、気の置けない相手になら所構わず行う挨拶程度のものであると聞く。
ならば、別にこのぐらいいいではないか、と自分に言い聞かせるようにして、政宗はざわめく心中をやり過ごす。
心ゆくまで真田は政宗を我が子にそうするように抱き締め、するりと離れたかと思うと、暗がりの中燭台の光にだけぼんやりと照らされた政宗の輪郭を、堅固な武士の指でなぞった。
幼い頃守り役に抉らせた右目以外は、政宗の造形は神の御手によるものと思うほど、完璧だった。
武家の子に生まれていなければ、色姑としてでも通っただろう。
儚ささえ思わせる見目に、しかし真田は目暗が初めて物を触るときのようにして無造作に不規則に触れた。
重い二槍を操る掌は硬く、触れられてもあまりいい気はしないはずだが、政宗は特に嚴悪を覚えなかった。
斯様に俺に触るのを許すのは己が認めた此の男だけだとさえ思った。
室内は仄暗く、間近にある真田の顔の輪郭はうすぼんやりとしているのに、その目だけは何故か爛々と光を湛えていた。
黄色く丸い、どう猛な獣の瞳だ。
そうだ、お前のその目が苦手だ、と言う代わりに政宗は真田を睨め付ける。
だけど竜の眼光は虎の前に鈍い。
「政宗殿が、某のものであったならばようございましたのに」
「……HA!お前、気でも狂ったか」
「いいえ」
「この独眼竜は、誰のものにもならねぇ。喩え天地がひっくり返ってもそんなことは起こらねぇ」
殊こういう場に於いては興に乗って、お前のもんになるのもいいかもな、とでも言うべきところを、
政宗は無気になって面白くないことを言った。相手が本気に捉えてしまいそうだと危惧したからだ。
真田の顔はよく見えず、表情を読むこともできない。
じとり、と真田の腕と己の皮膚の間から、脂汗が浮かび始めた。
その汗を振り払うようにして、政宗は尚も続ける。
「よしんばてめぇに飼われたとして、この俺を飼い慣らせるとでも?」
暫時、二人の間に重苦しい沈黙が降りた。
身体の距離と言葉の距離の落差に足を取られ、動けない。
ふっと真田の黄色の目が翳り、波が引いたようにして今度は竜よりも蒼いいろが宿った。
その色に名を付けるとするのならば紛うことなく、狂気。
己の裡にも確かに巣くうはずの其れは、よもや偽物ではあるまいかと疑ってしまうほどに、
一つしかない政宗の目には鮮やかすぎて、目映いほどだった。
此の男は、言動の全てが純粋素朴であるから、その狂気までもが純度が高いのだろうか。
(だとしたら、手のつけようもねぇ)
恐らく、その点に於いて政宗は真田を恐怖する。
そしてその純朴な狂気の箍が外れる瞬間が、自分の身の破滅のときではなかろうか。
「某を」
沈黙を裂いた真田の声は、どこから聞こえてくるのかさえ不明瞭で、政宗は聴覚を訝しんだ。
「努々甘く見なさらぬよう」
放たれた言葉に、政宗は瞠目した。
次の刹那、肉付きの薄い背は畳の上に強かに打ち付けられた。
真田に組み敷かれたと気付くのに、自分でも呆れるほど時間が掛かった。
勿論抵抗した。腕力では互角かそれ以上、暴れれば直ぐにでもこの惨めたらしい体勢から逃れられると政宗は踏んだが、どうしてだかびくりとも動かない。
一刻で持てる力の全てを吸い取られたか、はたまた半分も力を出せていないのか。
後者だとすればそれは何故だ。
何故この喉は、肩は震えている。
如何なる修羅場でも、初陣でさえ震えず威風堂々としていた己の身体が、何故今こんなに脅え、萎縮しきっている。
離せという言葉さえ震える喉からは出ない。
ただ断続的な、息の根がひゅうひゅう鳴る音がこぼれ落ちる。政宗はこの状況に絶望し始めていた。
「左様に脅えんでくだされ、取って食いやしませぬよ」
真田はくつりと笑った。どことなく幼さの残る笑顔が、逆にこの上なく不気味だった。
真田は両膝で政宗の腕を押さえ、胴に馬乗りになる格好を取った。
さほど重くはなさそうな体躯であるのに、まるで大岩を乗せられたような心地だった。
尚も足掻く政宗を尻目に、真田は先程とはがらりと変わったおぞましく優しい手つきで、
同じ箇所に同じ順序で触れた。覚えずびくりと肌が仰け反る。
「ああ政宗殿…何とお可愛らしいことか」
政宗を慈しむ目の中で、相変わらず蒼い炎がちらついている。
口を塞がれているわけもないのに、普段鷹揚なはずの政宗の声帯は何事も発することができなかった。
真田の中の自分は、己の想像とはまるで違う。
好敵手、或いは上位の武士、憧憬の対象、どれもてんで違う。
己にとっての稀に見るよき戦相手、よく言えば友が、自分を性の対象として欲し、女であればと夢想している。
その齟齬に、政宗は得もいわれぬおぞましさを感じた。
「貴殿が男子であることが、非道く煩わしい」
真田の手が、政宗の眼帯をゆるゆると押し退ける。
凛とした武将の唯一の弱点であり、禍々しさや穢れや忌みが一点に集中した右目の洞穴に、何とも不躾にその血に染まった手は入り込んでくる。
蓋が外れてしまう、此の男の持つ狂気に誘われて、封じた物の怪が這い出てきてしまう。
助けてくれ、と政宗は懇願した。そんな自分をまるで哀れな雑兵みたく感じた。
「政宗殿」
薄く酷薄に笑む面は鬼。その時政宗の脳裏には、もう一つの真田の異名が蘇った。
紅蓮の鬼。
虎なんぞという生優しい生き物で形容するには片付かぬ。此奴の真性は鬼なのだ。
ただ、今己にのし掛かる男は紅蓮ではなく、下火のように蒼い。
血すら通っていないのではないかと思えるほどに、冷たい双畔が右目の奥の骸骨を見ている。
真田の真っ赤な舌が、件の洞窟に這入って、ぐるりと入り口を舐め回した。
異様な感覚に政宗はまた、おぼこのようにびくりと肩を跳ねさせてしまった。
果たして其処はどんな味がするのだろう。
目玉を切り取られた後、縫うことを嫌って空けておいたことが悔やまれた。
塞いでしまえば、己の弱さに目を瞑ってしまうことになるように思えたのだ。
だけどその所為で、鬼の餌となってしまった。
真田は飽くことなく、かつて目玉が在った場所を舐り続ける。
食われるとは斯様な感触かと妙に冷静な頭で政宗は思った。
腹の底には気持ち悪さがとぐろを巻いて唸っているのだが、どうにも上手く炸裂させることが敵わず、
ただ自分の髑髏をなぞる化け物の舌の動く音と、確かに流れ循環する、男と同じ色の血液の音を聞くしかなかった。
何と無体な有様か、この姿を家臣が見れば、特にあの小うるさい右目の代わりが見れば何とするか。
蔑むだろうか、呆れるだろうか。
こんなザマでは、近くない未来、奥州は滅ぶだろう。
そしてそれは自分よりも位の低い年若き一武人によって為されるのだ。
嗚呼、きっと俺は搾取され尽くす。何故って此奴を振り払うことはおろか微動だにすることもできない。
やっと真田が舌を引っ込めた。
しっかと政宗の血の気の失せた顔を見据え、そしてにっこりと、あどけなく微笑んで不気味な約束の言葉を放った。
「次の戦場にて貴殿を討ち取った暁には、必ずや某が娶ってさしあげましょうぞや」