(死ぬのが怖い、死ぬのが怖い、生きていたい、どんな形でもいい)
(だが俺もお前もいつかは死ぬんだ)
(思案すべきはどんな風に死ぬのがいいかだろう)
(武家の心得なんざ忍の俺様にはわからない)
(俺は生きたい)
(生きたい)
(そうか)
(なら、死ぬな)
死ぬなと言ったのはあんたなのに。
佐助はせせら笑ってあちこち無数に付いた致命的とまではいかない真新しい傷のことを思った。
それらは見るからに目の前で同じように傷ついている男の愛刀が為したものだった。刀の名を黒龍と云った。
刀身に彫られているご大層な大義名分も今は鈍って佐助には見えない。
間合いを詰め、瞬時に佐助の俊敏な足が血染めの大地を軽やかに蹴り、今度こそ名のある伊達者を仕留めんとする。 暗具がぐっと伸び片倉を掴もうとするが彼は当然それを見越していて、長い足を軸に体を回転させ回避した。 その反動を使って今度は佐助の胴目がけ刀が振り下ろされるが、優秀な戦忍も鳥のように飛んで攻撃を躱す。 一瞬の隙に履き物に仕込んでいた刃物を踵から覗かせ、舞ったその勢いのまま片倉の顎を蹴り上げようとした。 しかし手応えはあったが掠っただけで、逆に足を掴まれて佐助は地面にねじ伏せられた。
ここで仕留められるかと片倉は思ったがそれはあまりに安直で、倒れた次の刹那には佐助は辛味のある粉を撒いて片倉の眼を潰していた。 すでに頬から右目にかけて切り裂かれていたのでいやに眼に滲み、覚えず怯んでしまったが、どうやら佐助の方も掴まれた際に足を折り、 後頭部を強打していたようで常の敏捷さがこの時ばかりは消えていた。折れた右足が異様な方向に曲がっている。 片目の視力の代わりに、忍の人外な速度を抑えられたのは助かった。
狭くなった空間を何とかこじ開けて片倉は穿月を構えた。どうしても息が上がる。しかし、片倉に恐れはなかった。 寧ろ斯様に愉悦を覚えることがこの世にあったのかと思うほど、身も心も高揚していた。 恐らく忍はそうではなかろう、死ぬのが嫌だと何とも透波らしいことを以前言っていたぐらいだから。 それにしても嚴死を謳っていた男は、今はまるで恐怖していないように片倉には思えた。
佐助は折れた骨を庇いながら手裏剣をくるりと余興に回し、来るべき雷鳴を待つ。 構えでどの技が来るのか、何度もやり合ってきた所為で手に取るように分かってしまう。 武士の道というのは何とも窮屈でやりづらい。 こちとら毒に刃に話術にと、殺す為なら何でもござれだっていうのに、そんな薄汚い相手とでもやり方を変えないなんていっそ気の毒だと佐助は哀れんだ。
予想通り片倉の技は穿月で、佐助は影潜で地中深くに逃げ込み、それから背後に回った。 乱れ十六夜とやらでは逃げ切るまでに時間が稼げないが、渾身の一突きを攻撃とするこの技ではどうしたって力む時間がかかるので、佐助は容易に土に潜ることができる。 最期までおばかさんだねぇと佐助はまた少し笑った。
片倉が振り向いて佐助の腹をかっさばくのと、佐助がその肩口に致死量の毒を仕込んだ苦無を刺すのとは、ほとんど同時だった。 お互い致命傷を負ったにも関わらず、足下の地に伏せることをよしとしなかった。 十分な間合いを取って、各々の武器を、どうにか具現している程度でしかない身体の盾にして再び向かい合った。
佐助の抉られた薄い腹からは臓物の一部と、夥しいほどの血が噴き出して、彼の足下を鮮やかに染めていった。その色は忍の唯一の主と同じ色をしていた。 この赤が旦那の赤に繋がっていれば、死に目を見せてやれるのに、と佐助は悔しがった。
対して片倉は傷口云々よりも、仕込まれた毒が身体中を巡り始めて、死がぐらぐらと裡で沸騰していることの方がずっとまずい事態だった。 傷口から鎖骨にかけてが壊死しはじめ、黒がかった蒼に変色していく。視界が廻る。 せめて主の元へ行きたいと強く想ったが、侵された内臓や血液が彼を絶望させた。
遂に片倉は黒龍をその手から落とし、地面に片膝を付いて激しく嘔吐した。もう吐くものなどないと思うほど吐いた後、逆流してきたのは濁った血液だった。
佐助は片倉にとどめを刺すこともできた。失血で殆ど立っていられなかったが、伸縮する武器を使えば必要最小限の力でこの世で一番手に入れたい男の命を奪うことが できた。 苦しみ悶えているのを見ているのも一興だなんて、悪趣味だね俺様、そう思った直後に佐助も血を吐いた。 とても不味い血の味に顔を顰めながら、最後の脚力が萎むのを感じ取る。
片倉は真っ青な顔に一筋黒ずんだ血を瞼から流しながら、残った左目で佐助を見ていた。 命を削り削られしていたつい先の獰猛な眼光でなく、どこか優しく慈しむような光を、左目が湛えていたような感じがしたので、佐助は倒れる前に思ったことを言った。
「は、おそろい、だね」
片倉は忍の戯れ言が可笑しくて、つい笑った。どしゃっと音がして忍が倒れた。まだ息があるように見受けられる。 片倉は虫のように這って屍となりつつある佐助に近寄った。仕留めるためでなく、ただ傍に寄りたいという欲求からの行動だった。 いつでも死ぬる覚悟を決めていた筈の己もまた、この忍のように死の恐怖に囚われてしまったのだろうか。 だから、眼前に残留する微かな体温に焦がれてしまうのか。だがその哲学を吟味する猶予は片倉にも、佐助にももう残されてはいない。
二体の熱は着実に冷え、機能の全てが緩やかに停止へと向かい始めて大分経つ。それでもしぶとく残る意識に縋る。 何もかもが終わる前に、片倉の身体は何とか空を仰いで臥する佐助の下へ辿り着いた。佐助の最期の鉛色の空を片倉の血まみれの顔が塞ぐ。 佐助は笑ったのか、頬の薄い筋肉が不作法に引き攣った。この時初めて、佐助は片倉の瞳を見た。
「死ぬの…怖いなぁ」
「もう…諦めな」
ほとんど掠れて満足に出ない声を振り絞って言った言葉は、それでも死への恐怖についてだった。 生前この男の褥で飽くほど言ってやった呪詛を臆面もなく繰り返した。同様にして片倉も毒に侵された声で死の甘受について謳った。 死を恐れる自分と美徳を見出す彼との間には矢張り濃い境界線が引かれていたのだ。とは言え視界も消えかかった今は、そいつもすっかり薄れて見えなくなっている。 どんなに褥を共にしてもけして越えられなかった壁は消失した。今の二人はただ死にゆく人間でしかない。初めて同じ動物になることができた。 そこには侵害も罰も罪もない。雄大な自然である死だけが存在し、波のように二匹の獣の間にたゆたう。
「寒い…」
感じたままに死の触感を佐助が言葉にすると、片倉は何を思ってか死に装束となる羽織をたっぷり時間をかけて脱ぎ、白く還っていく佐助の皮膚を覆ってやった。 それで力が枯れたのか、覗き込む体を取っていた片倉の身体がぐにゃりと崩れて、佐助の上に覆い被さった。 いつもより重く感じるのは、彼を殺す毒の所為だろうかと佐助は思った。
「まさか、あんたと死ねる、なんてね」
鼻先を寄せた屍となりつつあるかつて青かった赤い忍は、故郷の冬の、凍てつく河の匂いがした。 身を寄せ合っても寒さは内部からじわじわと広がって、もう指先がかじかんで動かない。 此奴は今何か言っているのか。それとも俺の頭の中で話しているのか。どちらでもいいと思った。
「嬉しいよ、片倉さん、」
ああもうこれ以上喋れない。片倉の感じる寒さと一分も違わぬ寒さを佐助も感じていた。 靄だらけのおつむには微かにしかし色鮮やかな、主の紅蓮が明滅して、心配や申し訳なさが渦巻いているけれど、同時に紛いなりにも己の生命を躍動させた敵国の男と 共に死ねることが甘美でしようがなくもあった。草である自分に、この死に様は贅沢すぎやしないだろうかと思うのだ。
死は怖かった。どうあれ生きていたかった。だけどこれならまあ、好くはないけど悪くもない。
聴覚が絶える寸前、片倉の声が自分を呼ぶのを聞いた。常の不躾な呼び名でなく、主が呼ばう名を片倉の声が囁いた。 こいつはいい冥土の土産だ、と佐助は最期にそう思った。
忍の脈が沈黙するのを待たずに、片倉の血も蒼に染まった。
今生で最期の言葉が忍の、呼んだこともない名だというのは癪だったし、できることならこの先天下を治める若き竜の美名を口にしたかったが、 碌に戦績も上げられず言葉も伝えられなかった己にはこのぐらいで丁度だとも思っていた。何も危惧することなどない。あの方ならきっと立派に。
片倉が最期に視た風景は、凍えた故郷の畦道だった。それは忍の冷たさに由来していた。