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※ジャズバー店主兼ジャズピアニスト小十郎×花屋居候兼画家佐助




猿飛佐助は悩んでいた。
このご時世に食っていくには困難な職業である画家を目指し、挫折や苦難の連続であったここ十年間の中でも 一番頭を抱えているといっても過言ではなかった。

旧知の仲であった武田の営む花屋に居候しながらも、何とか絵の仕事をぽつぽつと貰えるようになり、 ようやく人生が軌道に乗り始めた矢先の出来事だった。
それも、絵には一切関係のないことで、食事もまともに摂れないほどに、佐助は思い詰めていた。

店仕舞いを済ませ、後は適当に掃除をするだけだったはずなのに、もう閉店時間から1時間近く経っている。
用事を済ませてしまえば、また葛藤が始まるのがわかっていたからだ。
今日こそ連絡するか、会いに行くか、それともやっぱりやめておくか。
店の奥には、頼まれていた野菜の種と上質な肥料が顧客の名前の書かれた紙と共にもう4日放置されてある。
本来なら届いたその日に手渡しできたはずだ。何せ3歩先にあるジャズ・バーの店主が予約したものなのだから。

佐助が渋るのは、どういった顔をして会えばいいのかわからないし、あんなことがあった後で何を話すべきなのか、 決着がついていないからだった。
佐助は盛大に溜息を吐き、胸に鉛が吊り下がっているような感覚を少しでも排除しようとした。
幾分か楽になったような気もするので、溜息を吐くと幸せが逃げるなんて嘘だ、と思った。

まさか二十歳を超えてから、こんなに一人の人間について思い巡らせ日々悩む時が来ようとは。
たった4日前の深夜の出来事なのに、もうあれから何ヶ月も経ってしまったように佐助には思えた。
それほど一日が過ぎるのが遅かった。思い返しては顔が熱くなり、思考が奪われて鼓動ばかりが馬鹿みたいに早鐘を打つ。
それと同時にひどい罪悪感と、背徳感が襲いかかる。
全く以て想定外かつ未知の状況に放り込まれ、これまでの彼の「自分は女の子が大好き」という現実定義が見事に粉砕した。
また、性行為に対する其れも見る影もなく吹き飛んだ。
何より屈辱的なのは、別段それが嫌でない自分の感情だった。むしろ逆だから困る。困り果てている。

ただ単に、バイトである幸村の先輩が働いている店の主人だから店ぐるみで仲良くしていた。
音楽家でもある彼の感性や、男でも見惚れるほどの容姿と体格や、料理や自家菜園という意外な趣味に惹かれて、 しかもウマが合ってしまったのでよく話をしている内に、バーの内装を佐助の絵で飾りたいと言う話が膨らんで、 4日前それが完成したのだ。その日までは、佐助にとって件の男はよき友であり、憧れの存在であった、 少なくとも4日前まではそうだった、とせめて思いたい。

完成までほぼ毎日男の店に出向き、作業の合間にたくさんたくさん話をした。
営業時間内であったが、特に支障なく、芸術論から恋愛観、哲学めいた話や雑談まで何でも話をした。
佐助にとっていつしか男との時間はとても有意義で愉しいものとなっていた。
だから、絵が完成して客もいなくなった店のカウンターで祝杯を男2人で上げているときに、うっかりと口走ったのだ。

「でも、毎日ここに来てたから明日から来れないの、寂しいな」

酒も程よく回っていた。男の作る酒は本当に旨いのだ。たぶん、彼が佐助の味の好みを熟知しているからだろう。
どのリキュールをどのぐらい混ぜるのか、氷はどのくらい入れるのがいいか、ということまで。

「別に、用がなくたって来ればいい」
「えー、毎日?」
「ああ、毎日」

隣でとてもじゃないけど佐助には飲めないきつい酒を煽る男は、目線を合わせずにそう言った。
顔色ひとつ変わっていない男の左頬には、大きな傷跡が走っている。
あまり間近で見たことはなかったので、佐助はこれを好機としてじっと見つめてみることにした。
毎日、来てもいいんだ。そう思うとじんわりと胸が温かくなって、純粋にこう思った。

「嬉しいな」

佐助は生まれたての感情に素直に言葉を与えてやった。
酒の所為で彼はいつにも増してずっと饒舌になっている。

「随分、荒れさせちまったな」

男は不意に、佐助の手を優しく掴んだ。
なるほど確かに佐助の手は乾燥してささくれているが、それは花屋と画家の共通の職業病であるので、 男が気に病むことではけしてない。優しい人だ、と佐助は思った。

「だいじょぶだよ」
「今度いい薬を見つけておく」

小十郎さんの手、大きいなぁ、と佐助は思った。
掌の皮は厚すぎず、ごつごつとしていそうなのに実際触れると意外と柔らかかった。
話は飽きるほどしたけれど、彼の身体に触れるのは初めてと言ってもよかった。
いい歳の野郎同士なんだから当たり前なんだけどね、と佐助はこっそり心中で呟いた。

「ありがと。でも、小十郎さんのせいじゃないのに」
「いや、もったいねぇだろ、形は綺麗なんだ」

あ、褒められちゃった。
そう思ったのと少しずれて、佐助の鼓動が一拍大きくなった。
男にも女にも、外見を褒められることなんて滅多にない。
目立った容姿じゃないし、これまではどちらかといえば人となりを褒められることの方が圧倒的に多かった。
手なんて特に、荒れていないことなんて絵を始めてからはなかったので、自分の身体の中で一番汚い部位だと思っていたのに。
それが、この男に、小十郎に褒められただけで、嫌いなはずの手が急にきらきら光って見えた。
たぶん、自分が尊敬していて、憧れている人に褒めて貰えたからこんなに馬鹿みたいに嬉しいんだと佐助は酒でぼうっとする 頭で思った。


「小十郎さんの手の方がもっとずっと綺麗だよ」
「ピアノやってる奴の手じゃないってよく言われるがな」
「そんなことないよ、指なんか長くって、すらっとしてて、すごくキレイ」

いつの間にか佐助は小十郎の手をなぞるようにして触れていた。
だって本当に綺麗だと思ったのだ。綺麗なものには触れてみたいし、だからこれ何だか恋人みたいな触れ方だなんて思ったりしても後ろめたくはなかった。

視線を小十郎の手から顔に移すと、彼は此方を見ていた。
妙に思っているかなと心配したが、男の双畔は佐助に何かを物語ろうとしていた。
それが何かはわからないし、きっと小十郎自身もわかっていないだろう。
だけど佐助も、そのよくわからない何かに応えようとしてみた。

暫く不思議な時間が二人の間に流れた。
それから、まるでそうするのが世の理みたいにして、どちらからともなくキスをした。
ただ重ねるだけのキスなんて、一体何歳以来だろう?
いい歳をして、それも此所はジャズ・バーなんて大人の世界で、目の前には度数の高い酒がある状況だっていうのに、 初めて同級生の女の子としたあの時のキスよりもっと不器用だ、今のは。

キスの質如何よりももっと考えるべきことがあるはずだったが、アルコールのせいで佐助の頭からは倫理観や常識なんて 下らないことは全部吹き飛んでいた。
大事なことは、同性である小十郎としたキスがちっとも嫌でないということだった。
むしろ、さっき褒められたときみたいに優しくて幸せな気分が、更に大きくなった。
ならば、もう一度したい。もう一度すれば、この気持ちは止まることを知らず膨張するんじゃないだろうか。
本能に従って、佐助はもう一度自分から小十郎の唇に近寄った。次は少し長い、それから深い。
今日初めて手に触れた相手なのに、もう舌に、舌で触れてしまった。
てのひらより柔らかい、気持ちいい。佐助は夢心地で舌を更に深く絡めた。

「…ふ」

あー、今、変な声出た、恥ずかしい、と意識の片隅で思いながらも、佐助は行為をやめようとしなかったし、 小十郎も同じだった。

唇が痺れた頃になって漸く二人はキスをやめた。
キスの後の何とも言えない沈黙は、佐助は嫌いではなかったが凡そこの場においては相応しいものではなかったので、 いつもの軽口を叩くことを選んだ。

「…慣れてるね」
「…男とは数える程度しかない」
「俺なんて、男の人としたの初めてだよ」

小十郎はそれを聞くと苦く笑い、空きかけのグラスを二つ持って席を立った。
経験豊富そうだなとは思っていたが、男との経験もあるんだと佐助はどこか苦々しくそう思った。

佐助自身、人並みに経験はある方だ。甘いキスの一つや二つ知っていると思っていた。
だけど、この熱に浮かされたような痺れた残留感は知らない。
小十郎が触れた器官全てが溶けて流れてしまいそうで、目の焦点も合わない。
気の利いた言葉も言えずに、ぼうっとカウンターの向こう側、リキュールのボトルを隔てた真向かいで小十郎が 同じ酒を作るのを眺めるしかなかった。

氷がかち合う音が幻想的で、綺麗だと褒めたばかりの小十郎の長い手指がまるで芸術品みたく思えてきて、 顔は尋常じゃないほどに火照っている。小十郎が上品に音もあまり立てず佐助の前にグラスを差し出した。

「大丈夫か?」

笑いを含んだ声で小十郎が問う。透明な容器の中で氷がまた音を立てる。

「…なんか、」
「ん?」
「癖に、なっちゃうかも」

自分でも驚くほど、真っ直ぐに小十郎の顔を見据えてそんな小恥ずかしい台詞を佐助は熱っぽく放った。
少し面食らったように小十郎が瞬きをする。佐助は視線を外さない。

暫くにらみ合うように対峙した後、小十郎が長い手を伸ばした。佐助は腰を浮かす。
その手が頬に触れたかと思うと、幾分か強引に佐助の細い身体は引き寄せられた。
二人は、色とりどりの酒の瓶を挟んでもう一度深い口づけをした。
まるでぶつかり合うような荒々しくて激しい其れに佐助は夢中になった。お互い、歯が当たるのさえも気にしなかった。
そこから派生した熱は、もう止まることを知らなかった。




そんなことがあったのが4日前。
佐助は鮮やかすぎるその記憶に、また溜息を吐いた。
やっと正気に戻ったときには、佐助は裸で小十郎の寝室にいて、感じたこともないほどの腹と腰の痛みに犯されていた。
すぐにその場を後にしたかったが、鈍痛と怠さの所為で動けず、結局帰宅したのは早朝になってからだった。
風呂も借りて、朝飯まで作ってもらって、それでも小十郎は特に何事でもないようにいつも通りに接してくるものだから、 逆に佐助は対応に困った。精一杯彼のその態度に合わせたつもりだったが、うまく取り繕えていたのかは分からない。
思えばこの時からもう、佐助の苦悶は始まっていた。

嫌だったというわけではない。嫌いになったわけでもない。問題はそこだった。
どうして何で、酒の勢いも手伝ったとはいえ男と行き着くとこまで行っちゃって、でも別にそれに対しては特に嫌悪感とか なくて、寧ろあんなに気持ちいいセックスは初めてだったとか思っちゃってんのさ、俺様?
一生縁がないと思ってた後ろの穴開発されちゃったんだよ?おかしいだろ。
もう二度と会いたくない、忘れたいって思うのが普通じゃない?
なのに、なのに俺が恐れていることは、今までの関係が修復不可能になっちまうことなんだ。
もう、前みたいに色んな話したり、聞いたりできないかもってことが本当にすごく嫌なんだ。
嫌なんだよ、小十郎さん。でもあんたから会いに来たり、連絡してくれたりとかしないってことは、きっとそういうこと なんだろう?じゃあ自分から会いに行けるかって話だけど、そんなん無理だし、そう俺様臆病なの、だから会いに来てとは 言わないけどでも、ああ、どうしよう。

そればかりを堂々巡りの4日間。
佐助は何だか自分が情けないのと、悲しいのとで遂に涙が出そうになった。
思わず床に座り込み、文字通り頭を抱えた。

不意に、シャッターを叩く音が聞こえた。
やくざが取り立てに来たみたいだと佐助は思った。
そういえば初めて小十郎が此所に挨拶に来たときの第一印象も、取り立て屋だ、だった。
それを思い出した途端、身体がバネのように弾んで、佐助は無我夢中で鍵を開けた。
耳障りな音を立ててシャッターが開くと、其処には本物の取り立て屋なんかよりもっと強面の、 凄みのある男がこちらを睨んでいた。

「…こ、じゅっ」
「野菜」
「えっ」
「いつまで客を待たせる気だ?注文の品は届いたってご丁寧にメールしといて、配送は3歩先なのに1週間後か?」

小十郎が言っているのは、店の奥に眠らせている、頼まれていた野菜の種と肥料のことだった。
佐助がメールをした覚えはないので、恐らく武田だろう。
何も知らない店主は佐助が直ぐに小十郎に手渡すと踏んで、自ら赴くことまではしなかったのだ。

「…あ、ごめんなさい…今取ってくるから」

そう言って佐助は店の奥に荷物を取りに行った。心臓が不安で煩いぐらいに鳴っている。
怒ってる、よね、でも何て言えばいい?あの夜のことはなかったことにしましょうか、とか?
ああもう嫌だ、碌に目も見れやしない。きっともうダメなんだ、もう普通になんて接していられない。
誰か助けてよ、何かもう神様でも仏様でもいいから。あ、だめ吐きそう。

「佐助」

緊張と不安と、その他雑多なわけのわからない感情が渦巻いて中々品物を渡しに戻れない佐助の背中に、 自分を呼ぶ声が投げつけられた。
叱られる直前の子供のような気分だ。現に、大袈裟に肩を竦ませてしまった。

「何で店に来ない」

あまりにも核心を突いたストレートな質問に、佐助はまたびくりとしてしまう。
店に行かなかった理由を説明する上手い言葉がどこをひっくり返しても見あたらない。
小十郎は佐助の返答を待っているようで、それ以上何も言わない。
重苦しい沈黙に耐えきれず、佐助は声帯を振り絞った。

「だっ、て…」
「……そんなに、嫌だったか」
「違うっ!」

その言葉に佐助は勢いよく振り返った。それだけは違う、絶対に。
小十郎は、佐助がデザインした店の壁に右半身をもたれ掛けて、一寸首を傾けながら佐助を見ていた。
少し大きめのサイズのシャツが身体のラインを浮き彫りにしていて、それが変に色っぽくて佐助は目を逸らした。

「…違う、けど、でも…どんな、顔して会いに行けばいいか、わかんなくて…」
「何時も通りでいい」
「そんなん無理だよ…」

小十郎は、どうしてそんなに普段通りの態度を貫けるのだろう。
彼にとっては本当に彼の夜のことは取るに足らないことなのだろうか。
意識しているのは自分だけで、一人で空回って、ぐるぐる悩んで苦しんでいるだけなのだろうか。
そっちがその気なら、と開き直れればいいものを、佐助にはどうしてもその大人な芸当ができなかった。

「これから、あんたとどう接していいかわかんないんだよ、あんたにとっては何でもないことだったのかもしれないけど」
「軽はずみで男なんて抱かねぇ」
「ちょっと…そのド直球な言い方やめて、もっと繊細な問題なんだから」
「問題視するつもりもねぇ」

何が言いたいのこの人。ていうか何でそんなに威圧的なの。
小十郎の物言いに、佐助は少し腹が立ってきた。

「だってあんた何考えてんのかわかんないし!あん時のことだってそんな、どうでもいいみたいに思われてたら俺様 どうすりゃいいかわかんないし、俺は何でもないことにはできないし!もうホント、勝手すぎるよあんた!」
「絵描きの考えてることなんざ俺にだってわかるかよ。だからこそ俺はお前に興味があるんだ」
「何、それ…」
「俺はお前に興味がある。もっと知りたいと思ってる」

心配しなくてもあんたほど俺のこと隅々まで知ってる人間なんかいないよ、と舌を出してやりたかったが、 それを言うと負けたような気分になるのでやめた。

ていうか、ていうか。ほんと何なのそれ?
まるで、俺のこと、好きだって言ってるみたいに聞こえるんだけど。俺にだけそう聞こえるの?

「お前はどうなんだ」
「……わかんない」
「じゃあお前はどうしたい」
「……それもわかんない」

不覚にも泣き出しそうだった。
わけがわからなくて思考回路もぐちゃぐちゃで、小十郎が何を望んでいるのかもうまく読み取れない。
たぶん今自分はひどい顔をしている。

「お前、俺が好きだろ」

デリカシーの欠片も纏わずに、小十郎はまたも、事の核心を突いた。
それも表情は一切変えずに、当然のことみたいにあっさりと。
佐助は顔に身体中の血液が一瞬で集まるのを感じた。

「………わっかんないよそんなん!」
「さっきの言い方だと、そうとしか思えねぇがな」

何その自信!うぅわ、めっちゃ腹立つ、腹立つのに何でこんなに俺様の心臓ドキドキ煩いの?と佐助は矢継ぎ早にそんなことを思った。
小十郎はどこか勝ち誇ったような笑顔を浮かべ、壁に預けていた長身をするりと離した。

「ちょ、帰るの?」
「認める気になったらそれ持って店に来い」

野菜を見ながらそう言うと小十郎は佐助に背を向け、シャッターをくぐった。
そして一瞬振り向き、捨て台詞に「顔、赤いぞ」と放って3歩先の店に向かって歩いていった。

「何なのっ!何なのもうっ!」

佐助はまたもその場にへたりこんだ。
指摘された所為で、ますます顔が熱くなるのを感じる。燃えてしまいそうだ。
このまま燃え尽きて消えてしまいたい気分だった。
だけどもう、後戻りのできない道のど真ん中に立っているらしい。
そして嘆かわしいことに、指針も見えているのだ。
佐助をどん底まで苦しめた男張本人が、佐助の次にすべきことを啓示してくれたのだから。
悔しくて恥ずかしくて仕方ないけれど、きっと今夜にでも自分は薔薇の花か何かの代わりに< 野菜と肥料を馬鹿みたいに抱えて、目と鼻の先にある彼の店に行くんだろう。その後のことはそれから考えることにする。

決意を固めると、佐助はずるずる残していた掃除をまずは片付けるべく立ち上がった。
もう掃除の後に葛藤すべきことはなくなったのだ。







なんというBLでございましょうおやかたさば!