忍が宿命、わかっている。
冷たくなった嘗ての忍をぼんやりと見つめながら真田は尤もらしいことを思った。
彼だけではなく、数えきれぬほど沢山の忍や兵がこの戦で死んだ。
自分の肌もいつ彼と同じ土気色に変化するかわからない。
だから、彼一人の死を哀悼する暇などない。それもわかっていた。
真田はその実随分と頭の切れる男なのだ。
それでも、此の男の死をその他大勢と一緒くたに見過ごすことなど出来仰せる筈もない。
真田忍隊隊長であり、幼少から共に過ごした知己の仲であり、背を預けることを唯一許した男だったのだ。
少しばかり彼の惨めな死を悼む時間を割いても罰は当たらないだろう。
「…可哀想に」
忍の身体は意識していたよりも本当はずっと細く、みすぼらしかった。
血液の循環を止めてしまった肉体は見るだに硬度を帯びていて、その細さも相俟って屍体というよりはまるで木偶人形のように見えた。
足下に転がっているのは己の知っている猿飛佐助という男とは全く別の、物質でしかないのだと真田はそんな風に錯覚した。
佐助は未だ何処かで戦っている。
その内に、旦那、何してんの、早く采配し直して、と息せき切って本丸に文字通り飛んでくるのだ、と真田は考えた。
だがそんな幻想も、彼の骸の周りで慟哭している部下たちを見ると吹き飛ばざるを得なかった。
そう、采配を組み直さなければ。忍隊長亡き今、誰かを隊長に祭り上げなければ。
こうしている間にも敵陣は此方に攻め込んできているのだ。
ああ、悲しいほどに今の状況が把握できている。
恐らく此所が自分の両の足で立つ最後の地であるということも。
ならば尚のこと、と真田はすっかり希望を無くした暗い目を上げた。
此所で、決別しなければ。
斯様な喪失感、戻ってきてくれと縋る幼い願い、佐助と過ごした時間、思い出、感情、
それら全て戦場に不必要とされる要素をぬぐい去らなければならぬ。
俺は鬼と化さねばならぬ。
「下がれ」
真田は、佐助の屍の周りに蠅のように群がる部下たちを退けさせた。
彼らは一様に訝しむ表情を見せたが、総大将の命に従い佐助から離れた。
真田の眼前には、踏まれた草木と、かつて草の者と蔑まれた動かぬ男だけが残った。
徐に、真田は自らの槍を抜いた。
例の如く炎が囂々と上がり、見る間に佐助の身体は生き物のような其れに呑まれた。
息を呑む声が上がったが、誰もそれ以上は何も言葉を発さなかった。
炎はうねり、婉曲し、真っ暗な空に向かって立ち上る。
一切の光を失っていた佐助の肉体が幻想的にもう一度輝きを取り戻す。
肉体から、猿飛佐助を表象していた記号が次々に削ぎ落とされていく。
不可思議かつ魅力的な光景を、真田はぼうっと見ていた。
炎の輝きがちかちかと夜空に明滅し、それは走馬燈を喚起させた。
じんわりと、幼い頃や、まだ武田が繁栄していた頃の思い出が漏れ出してくる。
それと同時に、佐助が自分を愛して止まなかったということも、何となく思い出す。
不思議だ。不思議でならない。もう忘れていたようなことまで、ありありと炎は映し出してくれる。
生きている佐助が最後に言った言葉がふっと何かの拍子に蘇った。
確か今日、まだ陽の高いうちに言った言葉。
旦那、一緒に逃げよう。
その意味が真田には解せなかった。
周囲には今の佐助のように指のひとつも動かせぬ者たちばかりで、噴煙が辺り一帯を包んで煤臭かった。
ここまで戦い、犠牲を出して、敗走しようとまさか己の右腕が提案するとは思いもよらずに
真田は動揺し、激昂した。
如何なる強敵と相まみえようとも、けして諦めず最後まで武人らしく戦うという自分の決意を誰よりも心得、佐助もそれに倣ってくれるものと思い込んでいた真田にとって、その言葉は裏切りに聞こえた。
見捨てられたのだとさえ思った。
きっと忍であって武士でない佐助はもう戦いたくないのだと、所詮は此奴も草の者かと蔑みもした。
それきり、佐助の姿を見ることはなく、次に会えば説教のひとつもしてやろうと画策していた矢先に、
彼は見たこともない姿になって戻ってきた。
斯様なことになるのなら、と真田は歯噛みした。
佐助とならば、どこか遠く何もないところへ逃げてみてもよかったのかもしれぬ。
戦のない人生など考えたこともなかったし、そんな余生を送るくらいならここで打ち果てるのが己の本意だと半ば信仰していた。
だが、佐助が、いなくなるとわかっていたのなら、そんな信仰を捨ててもよかった。
互いの主従の関係など取り払った、真新しい状態で再び共に歩むのは、とても素晴らしいことに思えた。
そうだ、そういう、つもりで、佐助は。
俺を愛していた佐助は、そうしたかったのだ。
愛しているから、死んでほしくなかったのだ。
見限ったのではなく、ただ緩慢とした生を享受させたかったのだ。
見限ったわけではなかった。裏切ったわけではなかった。
佐助は、俺を、生かしたかったのだ。
「さ、すけ」
途端に、無音だった世界に猛る炎の音がする。
佐助の身体を燃料として雄叫びを上げる、己の炎。
もう、殆ど佐助は灰になろうとしていた。
それでも、未だ猶予が残されている気がして、赤い火の中から佐助の声が聞こえてくるようで、
それは紛れもなく自分を呼んでいて、いつものように、柔らかい声音で。
「さすけ、さすけ」
真田もそれに呼応して、何度も名を呼ぶ。だが佐助は何と遠いところにいることだろう。
眼前に確かに存在しているというのに、呼べども呼べども、佐助は何処にもいない。
思わず彼に触れようとして炎の中に手を差し伸べた。
だが、其れはとても熱くて、地獄のように熱くて、佐助に一寸も手が届かない。
皮膚が無様に焼かれていくだけだった。
ああ己の炎はこんなにも苦悶を呼び起こすものだったのか、
今までただ美しく吠える獣と愛でていたけれど、俺に焼き殺された者たちは狂うほど
非道い苦しみを以て死んでいったのか。
きっと俺を恨んだことだろう、彼らは自らの人生を反芻する暇も与えられず、ただ俺への憎悪だけを抱いて黄泉に行ったのだ。
佐助、お前はどのようにして死んだのだ。
ちゃんと俺のことを想いながら死んだのか。
それともお前も、自分を殺した相手への憎しみ一つしか持つことは許されなかったのか。
だとすれば、俺が此の手で焼き殺してやればよかった。
そうすれば、お前は絶対に俺のことしか考えずに死んだだろうな。
俺の存在を文字通り焼き付け、俺に支配された思念の塊として現を後にできただろうに。
さすれば幸せに逝けただろうに。
可哀想に、本当に可哀想に。
もう一度俺の愛する炎の中で生を受けてくれないか。
火焔に身もだえ、逃げ惑い苦しみ、俺を恨み、絶命してほしい。
俺を、俺だけを想ってもう一度死んでほしい。
「佐助、佐助ぇっ」
生き返れ!
「幸村さま!!お気を確かに!」
生き返れ生き返れ生き返れ俺の産んだ炎の中でもう一度、そして半分灰と化そうとしている瞳でしかと俺を見てくれ、 お前は誰に仕え誰を愛し誰の為に死に誰に殺されているかを悟れ、お前はこのままどこぞの馬の骨とも知らぬ下賤に殺された 一介の忍のままで死んではならぬ、ならぬのだ、ああ頼むからもう一度だけ!
「さすけぇ!さすけえええっ!!」
真田は常軌を逸していた。
炎の中に飛び込もうとする主を止めようと、部下たちは困憊している身に鞭打ち剛力で真田を押さえ付けた。
真田の顔も手も、一見しただけで重い火傷を負っている。
ようやく真田が鎮まったのは、猿飛佐助が完全に只の灰と化した頃だった。
地に膝を付け、がくりと項垂れている真田は、牙を折られた虎と同様だった。
ぽっかりと、地面はまるで切り取られたみたいに綺麗な円形に焼かれていた。
猿飛佐助を構成していた物質が、今は灰となってその円の中央に陣取っている。
どこか淀んだ色をしているように真田には思えた。
こんな些末なものが、佐助を象っていたなんてと驚く反面、いつも身軽に空を舞い、地を駆けていた佐助らしいという気もした。
真田はその灰をひとつ、燃える手に掴んだ。
何ということもない、只の灰だった。
それがかつて佐助だったことは愚か、人間だったことすら想像できなかった。
手甲の間から砂塵のように其れは落ちていく。
もう一度同じ量の灰を掴み、真田はためらいなくそれを口に含んだ。
「ゆ…っ幸村さま…!?」
やっと大人しくなったと思った主が、今度は見るからに毒を有した忍の人灰を飲み下したので部下たちは狼狽した。
遂に主までもが錯乱したと誰もが思った。
佐助の身体はとても苦く、しかし同時にどこか甘くもあった。
灰は口内の全ての唾液を吸収していき、有していたいくつもの毒を真田の身体に巡らせていく。
甘美だった。佐助に侵食されていくこと、そしてそれを当の本人である故人は知る由もないということが、真田をひどく興奮させた。
水を求める乾いた土のように、真田は佐助の灰を求め、浴びるように飲み下した。
咽喉に棘が刺さるような感覚と、からからに乾いていく口が、幸村の身体をじわりじわりと追い詰め、作り替えていく。
今此所で、ついぞ許されなかった佐助との純粋な交わりが繰り広げられているのだという事実。
最早彼らは別個の個体ではなく、一人の人間と相成ったのだ。
だって佐助は俺の中にいる、と真田は苦味に顔を引き攣らせながら恍惚とした。
斯様に優美なことなれば、もっと早くに行っておくべきであったと一抹の後悔を胸に抱きながらも、次々に体内に入っていく佐助をとても愛おしく思った。
「ゆ、きむらさま、なりませぬ、それ以上はっ」
痺れを切らした兵の一人が、灰を喰らう真田の肩に手を掛けた。
一瞬、真田の動きが止まる。
ゆっくりと振り向いた真田の瞳は穏やかで、しかし並々ならぬ青白い狂気に満ちており、一瞥だけで相対した者を射すくめさせるものだった。
鬼、という形容では片付かぬほど、真田は人間らしさを完全に喪失していた。
現に、彼に声を掛けた部下はひっと声を漏らし、後ずさってそれきり口を噤んでしまった。
「幸村さま…お体に障りますゆえ、どうか…!」
殆ど哀願に近い調子で、どこかで誰かがそんなことを言った。
近付くことは憚られたのだろうが、尚も説得を続ける器量はよくも悪くも真田軍らしい。
「知っておる」
しかし真田は冷たいよく通る声でそう一言放っただけで、もう土か草か佐助の灰か分からぬような芥を
食べ続けた。途中で何度か胃が消化を拒み、嘔吐しそうになったがその吐瀉物さえ飲み下した。
まるで誰かに操られているかのように、真田は一心不乱にただ、食べた。
口の周りに赤茶けた土をふんだんに塗した姿は幼子のようにも見えるが、
かえって異様な無邪気さを醸しだしていた。
次第に中腹部が鈍く痛み始め、重い吐き気が襲ってきた。
だが真田にとってそれはあまり大した問題ではなく、寧ろ佐助が己の中で存在を誇示し始めているのだとさえ思えた。
きっと自分はこの毒に殺される。最も厚い信頼を寄せ、細胞の一片まで搾取しきった男に殺される。
そんな歪んだ欲望を持った覚えはつゆほどにもなかったし、
自らの最期はもっと華やかに飾る腹づもりも幾分かあったのだが、この決断ほど己の欲に適い、正当性を孕んだものなど
ないだろうと真田は確信していた。
佐助、お前を食ってやったぞ。お前も、俺を存分に食い荒らすがいいわ。
真田はそっと自らの裡に語りかけた。
先の慟哭していた男と同一の男とは思えぬほどに、研ぎ澄まされた霊気と沈着さを備えて、真田は立ち上がり脅える周囲を見回した。
その双畔には、忍の色が窺えた。