DESIGN











何で彼奴なんだ。

政宗が本当にぶつけたかったのはその一言だったが、何しろ彼には確証という武器がなかった。
あるのは今この辛辣な瞬間には何の強みにもならぬ六本の刀のみだった。
それらも丁重に床の間に飾られていて、座敷の中央に座する政宗からは遠い。

彼に向かい合って律儀に剛健な両の拳を膝の上に置き、一寸の乱れすら許さない姿勢で正座している片倉は、諸々の報告を突如遮られ少し面食らっていた。

「お前、縁談の話は」

片倉に縁談の話を持ちかけたのは三月以上前のことで、結局それは具合が悪く破談になってしまった。
というのも自身の右目である男の嫁への政宗の批評眼は類を見ない程に厳しいのだ。
それ故あまり気安く縁談を話の肴にすることはない。
片倉は、政宗の見初めたおなごなら迷わず祝言を挙げるだろうが、問題はいつでも政宗にあった。
恐らくは前述の理由は建前で、どこぞの女よりも長く共に過ごした自分に敵う者などいないというのが若い政宗の本音だ。

「政宗さまがこれぞという者があれば、この小十郎何時でも祝言を挙げる腹づもりでございますれば」
「Again」

片倉は眉尻を少し上げた。政宗の発する言語の意味を理解していないときの合図だ。
南蛮語の何が便利というと、己の隠したい感情に蓋をすることを避けられる点にある。
またそれだ、と思ったのだ。半ば呆れるほど型に嵌った文句をこの忠臣というのはよくもまあ毎度毎度そっくりそのまま 発することができる。その紋切り型の言葉には片倉の感情など一切乗ってはいない。
以前ならそうか、とすんなり受け入れることができたが、今はもう違う。
当たり前のことだが失われた概念は二度と戻らないのだ。

打ち明けるはずもないだろう。娶りたくてもけして娶ることの許されない相手と情を通じているだなんて。
其奴を心から愛しているから縁談に余り積極的でないというわけではなかろうが、妨げている要因の一つではあり得る。

促すこともできた。まだ見えない確たる証拠を片倉の手で差し出させることもできた。
何せ政宗は片倉の唯一無二の主であり奥州の覇者である。
片倉に関して出来ないことなど本当は何ひとつだってない。あくまで理論の上では。

もしかしたら全てが己の杞憂なのかもしれない。そう考える方が至って自然ではあるのだが、政宗は己の直感を 信仰していた。これまでもそいつに頼って身を立ててきた節がある。
生まれながらに備わった、塵のような些細な変化をも見受ける力がこれほど疎ましかったことはなかった。
だが確かめるには政宗は未熟すぎた。受け入れる覚悟は愚か、罵倒する覚悟もない。
無理矢理に彼らを引き裂き、忌まわしいあの忍を八つ裂きにして、己の好敵手の持つ城を落とす覚悟も、どこを探しても 見あたらなかった。
何よりも片倉の口から、自分以外の人間にほんの少しでも情を傾けたのだと聞くことが耐えられなかった。
嘆かわしいことには、片倉が件の忍に向けている類の情は、政宗が実は喉から手が出るほどに焦がれているものであった。
国も民も財も全てを手中に収めても一生涯得られないものを、ただの草が我が物顔で得ているのだという事実は若き主に とって屈辱以外の何物でもない。

「政宗様」
「ああ、もういい。お前はいつだってそう言うな、と思っただけだ」

精一杯の皮肉を込めて政宗は畳の目に視線をやりながら言った。

「それが小十郎の真意にございます」
「…Liar」

卑怯な手を再び使った。しかし聡い右目は含意を漠然と読み取っており、痛いほどの視線を真っ直ぐに向けてくる。
言いたいことがあるならちゃんと言え、と彼の黒い双畔から発せられる光がぎらぎらと語っていた。

お前はけして言わない癖に。小賢しい。

白状して欲しいわけではないがこのまま沈黙を貫いて欲しいわけでもない。
どうしてほしいのかなんて元服した頃から決まっているのだ。
自分が正室を迎えると決まったときに反吐が出るほど嫌がった自分の感情に、今ならきちんと名を付けてやることができる。

俺を見てほしい、俺だけを見てほしい。ただそれだけ。
なのにどうして、どうしてあんな下賤の人畜をお前は見るんだ?どうして俺ではないんだ?
俺ならば全てをお前に与えることができるのに。どうして何一つ与えることすら出来ない彼奴なんかに、お前の情を 分け与えるのだ?

そんな劣情とも取れる思いの丈の一切が、細い喉から吐瀉物のように溢れ出しそうだったが、吐き気を抑える要領で 政宗はぐっと押し黙った。唇をぎりと噛んで耐える仕草は、きっと片倉の目にはひどく幼く映っていることだろう。
この男に幼い、と思われることほど悔しいことは政宗にはなかった。

「…政宗様」

今にも溜息を吐いて小うるさい説教を始めそうな勢いの片倉に、政宗は思わずこう言った。

「お前は嘘つきだ」

忠誠を誓う言葉は本当にただの言葉でしかない。
心の奥底から自分だけに付き従って生きていきたいと思っているなんて嘘だ。
否定するならば、敵国の乱波と通じていることを弁明してからにすべきだろう。
それはできないから、現に片倉は何も言わない。何故そう思うのか聞きもしない。
ほんの少しだけ、真っ黒な瞳孔が揺らめいただけであった。
傷つけたのかもしれない、と思うと少しばかりの痴れた優越感が政宗の心根を包んだ。

「お前の忠義は嘘物だ」

そう言い置くと政宗はすっくと立ち上がり、自室を出た。

直ぐにとてつもなく大きな罪悪感が唸りを上げて自分を襲うだろう。
どう足掻いても右目は人間が生きていく上で必要不可欠な存在であるのだから。
喩えその焦点が本体でなく、脇に生え散らかった雑草に合わさっていたとして、もう一度自分の右目を切り取ることなど 出来ない。それが分からぬほど政宗は幼くもなかった。
しかし事はそう単純ではないのだ。頭で理解しているからと言って、全てを享受できるわけではない。
右目がこの先一度さえも主を懸想することなどないということも、知っているけれど、ああそうかと諦めることは 彼にはまだできなかった。

そうしてしまえば、自分の中でまたひとつ何かが終焉を迎えるような、そんな気がして政宗は恐怖していた。
政宗は、本当の意味では何も、変えたくはないのだ。














何で俺様なんだろう。

佐助はよくそんな風に思った。
偵察の任務中大木の枝上で、主たちの飯炊きの厨で、男の立派な邸宅の屋根裏でそんな風に思った。

屋敷は余りに立派すぎて正面からでは目が痛い。
かといってそっと瓦葺きの抜け穴から入り込んだ、屋根裏の割には広い場所でもやはり居心地が悪い。
木に罪はないが、上等な檜をこっそりと手甲でこそぎ落としておいてやりたくもなる。仕事をする以外で御武家様の塒に お邪魔するのだから落ち着かないのも無理はなかろうが、それでも一番に己をざわめかせるのは計り知れぬ男の裡だった。
だが佐助は忍なので、余計な疑問符を殺すことには長けている。
未だ傍に置くと彼の御仁が言うのならば自分はこの屋敷で侍女や小姓の目を憚りひっそりとその帰りを待つことができるのだ。
そもそもこの不純な関係に疑問を持つことこそ不毛である。

「……来てたのか」

俄に屋敷の生活音が色めいたかと思うと、暫くしてから矢張り主が寝室に入ってきて、ろくすっぽ上を見ずに開口した。
佐助はするりと音もなく屋根から降りて男の前に姿を見せた。

佐助は顔を見るなり、常ならばぶれることのない真っ直ぐな片倉の眼光が、弱々しくなりを潜めていることに気付いた。
何の変わり映えもしない、清廉潔白で整頓された身なりが逆に、湛える目の光の弱さに哀愁を付随させていた。
こういうときに忍の観察眼が疎ましいと感じる。
何も悟らず、何も思わずに男と肌を合わせて快楽だけを頂戴し、煙を巻いて上田に帰ることができればどんなにか楽だろう。
それでも上田の地で随分と世話焼きになってしまった自分は、片倉から垣間見える寂寞を嗅ぎ取らずにはいられない。

「来ちゃ、まずかったかな」
「いや…」

低く威厳のある声も、心なしか掠れている。
本人は隠すつもりがあるのか否かは知る由もないが、気付いてしまったものはもうどうしようもない。

暫くすると、いつもは中々縮まらない距離が、今日は片倉がその歩を迷うことなく進めたので、佐助はすんなりと男の情人 らしい立ち位置に収まった。長く逞しい腕が伸びたかと思うと、何を思ったか抱き寄せられた。
あら、珍しい。佐助は男の胸板を頬に感じながら目をくるりと一回転させた。
兎に角あの邪魔な顔当てを外して置いてよかった、とも思った。

「…お前は何で、独り寝のしたくない夜がわかるんだろうな」

たっぷりと余白を置いて、片倉は発したことのないような、それこそ睦言のような言葉を放った。
嗚呼これは、よほどだ。佐助は大きな童を宥め賺している気分になり始めた。

「…たまたまだよ。こういうのも、合縁奇縁っていうのかな」
まるでしがみつくように抱きすくめてくるものだから、少々骨が軋んだ。
背中にできた新しい火傷や傷が引き攣れて痛んだが、無粋な理由でこの童を突き放してやるのも可哀想だったので、 後ろに撫でつけられた男の髪を撫でてやることにした。

俺はあんたの母君でも何でもないんだよ、お馬鹿さん、と思いながらも、素直にああ可愛いなあ、と佐助はどちらかというと慈愛の類を男に向けた。
手を焼いた餓鬼が初めて心を開いて呉れた時のような、純粋な嬉しさと少しばかりの優越感、更に言うならば支配感が佐助の 胸を焼いた。何があったかは拷問にかけても吐かないだろうけれど、それを聞きたいとも思わないので好都合ではある。
脆さなどついぞ見せぬ豪奢な武将に身を委ねられるのも悪い気はしなかった。
こんな間柄になるとは、幾ら身体を重ねても夢にも思わなんだ。
愛情みたく厄介なものは御免被りたかったのだが、実際近いものに絡め取られると不覚にも暖まった。
だから純粋に、今彼が欲しているだろう最初で最後の言葉を投げかけてやることにした。

「俺様さ、あんたのことが、好きだよ」

自分の声が斯様な戯れ言を零すのはこそばゆいが、実際に言ってみると己のないはずの心とやらが俄に稼働した。

好き、か。
愛ではないけれど、あんたに対するこれはきっと好意と呼べるべきものだ。
忍が持つことを許されない好意。だけどこのお武家様だって、余所の忍に甘えているのだからお相子だろう。

「真田の旦那も大事だけど…あんたが大事だと思うのとは、ちょっと違う」

こんなにも緩慢と、片倉という男の体温や匂いや力を感じる夜が訪れるとは。
狭い尻の穴からではなくて、身体中に張り巡らされた細胞で感じる情人は、平生とはまるで違う生き物のようだ。
竜の半身を構成する微細なものたちは、心地よかった。慈しむとは正にこのことだろう。
殺し破戒し奪うためだけに付いている両の腕が、優しく髪を撫でつけ、形の良い頭頂を包み込む。
此の俺の腕がそんな風に働いていることを、この世において知る者はない。
自分は、人の子というものに、今この刹那だけでもなり仰せているのかも知れない。

「好きだよ、旦那」
「……ああ」

ついぞ投げかけることなどないだろうと思っていた睦言は、寒い部屋に霧散した。
取って付けたような典型的な愛の言葉は贋物ではある。
ああ、と頷いた腕の中の男もそれを承知しているし、何とも名付け難い忍と重臣の関係にはお誂え向きだった。

溺れてしまっては敵わない。深みに填るのはこの身体同志だけでいい。
忍に心はないが、きっとこの男にもない。
それでも今夜に限っては、人の子同志で慰め合う格好をとるのも一興だと佐助は思った。
此の御仁もなかなかどうして可哀想なお方だ、と佐助は目を閉じた。

一層浅ましく愚かしく、愛し合えたなら此所に来て仕舞う自分の不遜をも甘受できるのに、と心惜しい気持ちで、 片倉の無骨な掌が腰回りを掴むのに嚥下した。














何故この男なんだ。

不意にそう思わないこともなかったのだが、何故ということもない、と片倉は直ぐに答えを導き出してしまう。
全ては偶発的で、其処に必然性などありはしない。たまたまそうなってしまった。

しかしその淡泊な事実が連綿と続いて今に至るのは、本来けして許されることではなかった。
初めから了解していたことではある。目立った闘争はないにしても敵国の忍などと情を通じるなど、言語道断のはずだった。
唯一忠誠を誓った主を裏切る真似を、よもや右目と謳われる自分がずるずると続けているとは、片倉自身一番驚いている。
忍に会うまで、主の邪魔立てをする一切の表象を薙ぎ倒して生きてきた。それが己の存在価値であり、歩むべき道だと信じて 疑うことはなかった。

その信念が違ったわけではない。しかしこの体たらくはどうだ。
身体のみを貪る対象であったはずの彼の男に、昨晩縋り付いてしまった。
それも偶々、主に忠義を否定された宵のことだったからだと片付けてしまうには、片倉は特定の忍と逢いすぎていた。
それに、否定の理由は恐らくこの不義にある。聡明な主はきっと何かを感じ取ってしまったのだ。
最早取り返しのつかないところにまでもつれ込んでしまった。

ひとしきり忍を好きなように扱った後、倒れ込むようにして惰眠を貪った自分はその場で暗殺されていても 不思議ではなかった。一応未だ首は繋がっていて、何の情痕もない綺麗な褥に、片倉は無様に転がっていた。

本当にもうそろそろ仕舞いにしねぇと、切腹だけじゃ示しがつかねぇ。

頭では痛いほどによく分かっていた。たぐいまれな軍師である片倉が愚かな男の道理がない。
それでも僅かに残る冷たい体温に少しばかり絆される。
正体はよく分からないが、郷愁じみた何か、昔から在ったような、心を落ち着かせる馴染んだ書物を読んだときのような 何かに絆されてしまう。

これまでで、不要なものを切り捨てられなかったことなど一度だってなかった。
明朗に一寸の迷いもなく、要らぬと考えたものは全て捨ててきた。
だからこそ伊達が奥州を統べるまでにのし上がったのだ。こんなことは初めてで、片倉は戸惑っていた。

根本的な部分は変わらない。
藤二郎政宗以外に仕える気など更々ないし、あの方を護り死することこそが最大の幸せだと胸を張ることができる。
だというのに片倉は、主が統べる国にとって不利益はあっても利益など確実にもたらさないこの関係を断ち切ることが できない。大きな矛盾に理由を付けることが、賢明であるはずの軍師には出来なかった。

忍が放った睦言に対しても、場に相応しいと思いはしたが何の情動も感じなかった。
恐らくは向こうもそうだろうと思う。
互いに愛など持ってはいない。執着も、依存もない。あるのは欺瞞と悦楽だけだ。
ではどうして、こんなにも単純明快な関係であるのに、引導を渡せない。

(…もう、よそう)

片倉は寝返りを打って考えることを放棄した。幾ら思案に耽っても詮無き事だった。
きっと、未だ屋根に空いた不自然な穴は修復しないし、侍女を増やすこともしない。
壊れる手前のところまで、否壊れて仕舞った後になってようやく、元の自分に戻ることになるのだろうと半ば諦めて 片倉は残り少ない睡眠を貪ることに決めた。








言ってしまえばウマが合うのが小十佐