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片倉中尉は普段あまり手を出さない煙草に、この夜ばかりは口を付けた。

世界的に禁煙の風潮が強まっているとは勿論実感するのだが、それは先進国である故国に滞在するときの話であって、明日の命も知れぬような途上国で肺気腫に脅えるのは馬鹿がすることなのだ。 人々が口を揃えて嫌煙する国が世界と呼ばれる場所なら、自分たちは今世界の枠の外にいるということだろうか。恐らく、煙草の話でなくても、此所は常に世界の外側なのだろう。

キャンプからは派手な夜宴に興じる兵士たちの、若者らしい騒ぎ声が聞こえてくる。 明日はこの国に来て最大の戦闘作戦が遂行される。日本国に仇なす危険なテロリスト集団の本部と報告されている場所を掃討するのだ。片倉自身は大規模な戦闘など数えるのが億劫なほど経験してきたが、空元気を振りかざす新兵たちを見ていると、どこか心がざわめくのだった。

テロリストを匿う国には似合わぬほど美しく澄んだ星空は、けして故郷では見ることのできないもので、皮肉だと片倉は紫煙を吐き出しながら思った。あの星々からすれば自分たちは自然を侵し破壊を尽くす暴徒でしかないのだろう。所詮は世界、など人の頭の中だけの妄念だ。

「片倉中尉?」

振り返ると、そこには真田三等兵が立っていた。喧噪から逃れる、という同じ目的の者がいたこと、それ以上にそれが片倉であったということに驚いているようで、元々大きな瞳を更に大きく開いている。

「真田か。パーティーに出席しなくていいのか?」
「…は、某は騒がしいのはどうも落ち着かず…」
「奇遇だな。だが酒は好きだろう?くすねてきたのがあるぞ」

手招き代わりに小さな酒瓶を振ってやると、真田ははにかんで片倉の隣に来た。立ち話も何だと地面に腰を下ろすと、真田もそれに倣った。酒を受け取ったが、口を付けない真田に、遠慮せず飲めと促したが、先ほどのはにかんだ笑みを浮かべただけだった。

「まさか、下戸か?」
「わかりませぬ。酒を飲んだことがないので」
「冗談だろ」
「いいえ、つい先日十八になったばかりなもので。今宵初めて数口、口を付けました」

今時法令を遵守し断酒する若者がいるのかということよりも、真田がそうであることの方が片倉にとっては驚きだった。確かに普段の訓練や日常では真面目な青年に見えるが、一度戦場に放てば彼を制止できる者などいない。従軍歴の長い屈強な男でさえ目を覆うほど残忍極まりない殺戮行為を、いかにも楽しそうにいつまでもやり続けていられる化け物が真田幸村だ。 当初は確かにその落差に瞠目したものだが、化け物を力ずくで引き摺り何とか制御するのが片倉の日課となった今では、好青年だった真田の姿など忘却の彼方だった。

「酒が初めてってことは、煙草もマリファナも未経験か?」
「マリファ…それは違法にございましょう!?まさか、中尉ともあろう方が駐屯地で違法薬物を摂取するなど…」
「おいおい…勘弁してくれよ、こいつはどう見たってただの煙草だろ。何なら吸ってみるか?」

片倉はポケットから新しいマルボロ・ライトを一本取り出し、真田の口元に吸い口を向けた。

「長い人生だ、一本ぐらい吸っておいても損はねぇ」

真田は少し渋ったが、片倉の後押しのような一言で大人しく煙草を咥えた。安っぽいオレンジのガスライターで火を点けてやる。作法の分からない真田に「吸いながら、だ」と助言までつけてやった。 13歳に煙草を教えているような気分だった。間違っても4歳の息子の梵にはこんなことはしないしさせないと片倉は誓った。

「ぐ、げほっげほげほっ」
「一気に吸い込むからだ。ゆっくり肺に入れて吐き出せ」
「そうは言われても、よぅわかりませぬっ」

盛大に噎せ返りながら涙声で抗議する真田は、車を乗り回し安いウィスキーを回し飲む平凡な18歳よりずっと幼く見える。煙の吸い方も知らない餓鬼が、人殺しの腕は天下一品だなんて何とも滑稽だ。煙に苦しみつつも何度か試みる姿は健全な若者らしすぎて微笑ましい。

「いらねぇなら寄越しな」
「いえ、その、某がもう口をつけてしまいましたので」
「構いやしねぇよ。煙草は性に合わねぇってわかっただけでお前にとっちゃあ進歩だ」

片倉は短くなった自分の煙草を地面に落とし、長いままの真田の煙草を吸った。 綺麗に喫煙する片倉の口元をじっと見据えた後、真田は遅い返事をした。

「ええ、進歩、にございまするな…ありがとうございます、中尉殿」

真田は屈託のない笑みを浮かべる。戦場での彼を知らなければ、田舎の澄んだ空気の中で温かい家族に育てられた無垢な若者だと信じて疑わなかっただろう。

とはいえ真田がこんな風に笑うのは片倉の前だけだった。何故かはわからないが相当懐かれている自覚が片倉にはあった。銃撃の手を休めるのも自分の号令か、あるいは叱咤だけであるし、ことあるごとに他愛もない話をしにやって来る。片倉自身もそんな彼を疎ましくは思っていなかった。 危険因子であることは間違いないのだが、時折こんな風に純粋な面を見せるので、皆が言うような冷血漢ではなく、ちゃんと情緒のあるれっきとした18歳なのだと思ってしまう。

「それにしても、見上げた禁欲ぶりだな。その様子だと女もまだ知らねぇのか」
「…ええ、あまりそういったことに興味がなく。誰かに好意を寄せたことも記憶にはございませぬ」
「冗談だろ?お前、ゲイか?」
「いいえ、男にも女にも興味がないのです。同世代の者が何故おなごと接吻をしたことを興奮して話すのか、一度も理解できたことがござらぬ」

こういう発言にはやはり此奴は欠陥した人間なのだと思わざるを得ない。自分が興奮するのは人を殺しているときだけだという意味を言外に含んでいるように思えて、少し背筋が凍る。

「矢張り、接吻も酒や煙草と同じように、男児たる者一通り済ませておくべき事柄なのでしょうか」
「ああ、まあそうだな、間違いなくそうだ」

隣人愛やアガペーを説く気も、近代的な恋愛イデオローグを説く気も片倉には更々なかったが、一般的な経験としてキスのひとつぐらいは知っておくべきだろうと片倉は思い、自信を持って返答した。そうでございますか、とどこか塞いでしまったように俯く真田は少し憐れに見えた。

片倉は真田の顎を取り、自分の方に顔を向かせた。何事かと驚く真田の瞳がゆらりと揺らめく。

「…ふん、見目は悪くねえ、寧ろ良い方だ。国に帰れば女の方からいくらでも寄ってくるさ」

精一杯の励ましのつもりでそんな言葉をかけ、真田の尖った顎をぎゅっと掴んでから離した。 どこか落ち着かない様子で真田が顔を背ける。子供扱いが癪に触ったのだろうかと片倉は笑んだ。

「帰れるかどうか」
「…お前がそこまで弱気になるとは。すまん、そんなに気になったか?」
「明日はこれまでとは訳が違いましょう。某は未熟な三等兵にすぎませぬ、この命、明日散るかもしれぬ。それは別に構いませぬが、ならばせめて接吻ぐらいは知ってから死ぬるべきなのかと。酒も煙草も今宵知ることができたのですから」
「そんな気概でどうする?国に帰って女を買うことを考えて切り抜けろ、明日は羽目を外しすぎても構わねえ」
「…おなごは買いませぬ。中尉殿」

真田の瞳に、見覚えのある焔が宿っていた。戦場で誰彼構わず撃ち殺しているときの、高揚した瞳だ。片倉は一瞬怯んだが、これはつまり真田が興奮している印だと悟った。では何に?殺戮と同等の興奮を何に覚えているのだろうか。此所には煙草の吸い殻と、濁った酒と、三十路手前のくたびれた軍人しかないのに。

「貴殿と接吻をしてみとうございまする」

真田の若く高い熱は片倉の瞳を捉えていた。意外な申し出に戸惑いを覚えるが、キスのひとつも知らずに死にたくないという思いは映画か何かで観たことがある。何の映画だっただろう、暗く鬱々とした、確か眼前の若者と同じくらいの年齢の奴が出ていた。何とも妙な空間の中で片倉の脳は昔観た映画の記憶を辿ることに集中していた。暫くするとタイトルと、内容が錆び付いた記憶から取り出された。

「…お前、出身校はコロンバインじゃねえだろうな」
「某は上田第一高等学校の出です」
「ならよかった」
「接吻する相手に出身校を訊ねることは必要なことなのですか?」
「いいや、ちっとも」
「それでは、承諾していただけるのですね」
「待て、お前男に興味ないんだろ?それにファーストキスがこんな適当な、十以上離れたしがねえジジイでいいってわけにはいかねぇだろう」
「してみたいと思ったのです。今までそうしたいと思えた者はおりませなんだが、片倉殿とならば、してみたい」

俺はれっきとした男の部下に告白されたのだろうかと思うと何だか可笑しかったが、恐らく真田は今純粋な衝動に駆られた子供と同じなのだろうと片倉は理解した。別段そこに恋慕とか、愛情とかいった面倒なものは存在していない。例えば梵が父親である自分に頭を撫でて欲しいとせがむのと同じなのだと思うと、無碍にはできないと思った。そこで片倉は、酔狂に乗ることにした。彼には粋を重んじる節も少なからずあったのだ。

「なら、いいぜ」
「誠にございまするか」
「ああ」

片倉は景気づけに煙草を一口喫んでから、地面に押しつけて消し、煙の味が残る乾いた唇を差し出した。女の其れとは比べものにならないほど堅く、触感も悪いであろう片倉の唇に、しかし真田は恭しく己の唇で触れた。数秒重ねるだけの口づけは、片倉に10年以上前の蒼い時代を想起させた。

「…煙の味がした気がいたします」
「レモン味でなくて悪かったな」

苦手な味に顔を顰めつつも、真田は満足そうに笑って見せた。それを見ていると片倉も親のような気持ちになって、笑みを零した。戦場には凡そそぐわないが、戦場でなければこんな気分にはならないだろうなと片倉は自嘲し、残った安酒を飲み干した。





軍事パロで青春ごっこたのしいいいいいい