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奥州の夜は酷く寒い。繊細な俺様の皮膚が千々に細切れて仕舞いそうだ。
だけどこんな寒さには慣れているはずだった。一応真田忍隊隊長を務める者として、極寒の中木の上で長時間張り込むことも
難なくこなせる。 なのに、こんなに寒くて凍えそうで臓腑まで凍ってしまいそうに感じるのは、この男の屋敷に仁瓶もなく捕らわれに来てしまったからだろうか。

「い、やだっ」
忍び道具を着けぬ俺は最早只の狗でしかなく、何も身に着けてはいないはずなのに俺の痩身には身分という名の衣がずっしり 纏わりついていてその所為で自分の身体が酷く重い。
その衣は俺に刃向かうという行為を制限し、逃げるという選択肢を殺す。
だから為されるがまま、手荒く己の身体を扱う男の無骨な手指を享受しきっていたけれど、圧倒的な快楽に上擦った頭を 割れんばかりの力で枕に固定し、ひゅっと喉が鳴ったところに竜が甘く噛みついてきたのには耐えられなかった。

「いや…っ…たくらさん…それ、は、いやだ…!」
声帯が圧迫されているせいで、俺の必死の抗議は思った以上にか細かった。押さえ付けられた頭も凄く痛い。
小さい脳味噌が潰れちまうんじゃないかと危惧するほどに。

容赦なく首の向きを変えられて、右耳の下に竜は牙を立てた。
首まですっぽり隠す忍装束を着ても見えてしまう位置に、右目の旦那の綺麗な歯が食い込む。
ほんの一瞬だけ、鋭痛と耳の穴にまで穿つ快感に絆されてしまって、俺の上にのし掛かる男の端正さを思い出して恍惚とした けれど、すぐさま俺は彼の堅固な肩を無我夢中で押し返した。

「うっ…ぁ…嫌…よして、片倉さんっ」
「何故だ」

俺のぐちゃぐちゃになった顔を覗き込む旦那の双畔は相変わらず氷のようで、仮にも褥の最中だって言うのに感情の ひとかけらも読み取らせることを良しとしない見上げた無愛想ぶりだった。
それでも、何時でもどんな時でも、その目に見下されると俺は何か得体の知れない感情に打ち震えるのだ。
畏怖とも狼狽とも取れるけれど、忍である俺はその感情の正確な名を知らない。

「痕に…なるだろ」
「ああ、だろうな。それの何がいけねぇって?」
「…真田の旦那に…心配かける」

忍に敵国の重臣の夜伽の相手をさせ、情報を得るのは常套手段なのだが、我が主である真田公はその下卑た手段をけして 許さない。色恋にさえ疎い彼のことだと得心はいくのだが、俺様みたいなモンに、佐助に斯様な辛き思いをさせたくはないと そんなことを言う。そんなことで得た情報など要らぬと豪語する。俺が自ら主の為と勝手な行動をしても、純朴で優しい彼は 激昂するのだ。それは一種所有欲のようなものなのかもしれない。

「心配、と来たか」

右目はくつくつと喉を鳴らして笑った。この男が笑うなんて滅多なことではないので、薄ら寒く感じた。

「真田に、見せ付けてやればいいだろう。折角のお前の、精一杯の謀反だって言うのに」

思わず、舌を噛みきって自害したくなった。きっと俺は酷い表情を浮かべてしまったんだろう。
右目が、さっき俺の首に噛みついた歯を見せて完璧に笑って見せた。

それ以上俺は何も言えなかった。何だ、とっくに看破されていたんじゃない。
否、最初は隠す積もりなんて更々無かった。蒼き龍に心酔してしまった哀れな主、俺様の積年の想いに微塵も気付かなかった 愚かな主へのささやかな復讐にと、俺はこの男に色目を使った。それがそもそもの始まり。
だけど相手が悪かった。片倉の旦那は、心と頭と身体を分離させる天才だったんだ。
本能を掻き立て、身体の奥底に流れる腺を暴き、もっともっとと欲を駆り立てさせる天才。
この男が天下を獲らなくて本当によかったと、心からそう思う。

最初はそうだったけど今は違うんだ、と軽口を叩けなかったのは、きっと未だその淀んだ感情が俺の精神の奥底で燻ってい るからだ。この男は、消し去ることを敢えてせずに、ずっと中途半端なままで放置しているのだ。その方が、好都合だから。
嗚呼本当にどこまでも残酷な男、幾ら忍だからと言えど人の形をした物によくも平気で斯様なことが出来仰せるよね。

「あ…は、あはは…っう、う…んっ」

可笑しくなってきて思わず笑うと次は頬に噛みつかれた。
ここでもっと嚴悪を込めて傷つけてくれればいいってのに、そしたら今度こそこんな寒い所に出向くことは二度としないって 思えるのに、まるで慈しむかのように、所有を希う者のように官能的に甘く熱く皮膚を食べるものだから俺様本当に困っちゃう。
俺を一生奴隷としてしか見ない癖に、いつか人として愛して呉れるんじゃないかって錯覚させるのが本当にお上手。
ねえ、もうどうでもいいや。どうにでもしてくれよ。忍として生きる価値さえ殺した俺を、どうぞお好きに嬲って下さいよ。
あんたになら何されたって、もういいや。

「…片倉さん…ぅッ」
「何だ」
「…めっちゃくちゃに、襤褸雑巾みたいにしてから、俺様を上田に帰して」

そう言うと、鬼のような顔で男は不敵に笑って見せた。






熱というのはいくら温度が高くても冷めるもの。
まして外はこんなにも寒い。血管にまで染みこんだ彼の男の体温も、望んだ通りボロボロにされたこの身体が風を切って 進むごとに空気に奪われ冷えていく。そうして俺は、自らを非道く莫迦な人間だと改めて自負するのだ。

めちゃくちゃにしてほしい、などとどの口が言えたものか。

夜明け前の不気味な灰色の空は今にも降りてきそうだった。俺は身震いして、太く逞しい木の枝で暫時立ち止まった。
腰が鉛のように重い。後処理を怠った所為で腹がぎゅるぎゅる鳴いている。
幾重から成る忍装束の下には、あの人が施した爪や歯の痕が無数に散華しているという恐ろしい事実に身震いした。

いつだってそうなんだ、あの人に抱かれているとき、逞しい傷だらけの腕に囲われて腹も鋼鉄の忍の心も暴かれて犯されて、 そうすると本心から嗚呼どうにでもなれと思うのに、一度体温を滅却すると理性がすんなりと元鞘に収まって、 俺は何て恐ろしいことを、と血の気が引く。
体臭は愚か気配、生気すら所有することを許されぬ忍という道具としての存在が、こんなにも敵国の男の色香を毛髪の一本にまで 染みこませて時間の中に立ち尽くしているなんて、あるまじきことだ。
俺はあの夏の暑い日に、草いきれの中真田幸村に仕えることを誓ったその時に、朽ち果て肉片のひとつが完全に塵と化す瞬間 まで彼の忍として生きると決めた。その原点はいつしかぼやけ、黒ずみ、沈殿していた。
だけど自らの謀反で犯した罪の許されぬことを思い知る。
戒めを解いたのは誰でもない俺であるにも関わらず、まるで右目がそうしたみたく感じる。
それほどまでに、あの男の肉体は、良い。俺は覚えず肩を抱いた。思い出すだけでぞくりと背が粟立つ。

それでも、俺は未だ真田幸村という武将に己の持てる全てを捧げたいと願っていた。愚かだと笑えばいい。
かくも心を掻き乱された忍は使い物にもならないが、そんなものバレなければいい。お得意の隠蔽を、己が主にする。
此は紛れもない裏切りだ。だからその後始末は、手前でするさ。

火打ち石を何度か叩き、生まれたての炎に短剣の刀身を翳す。ぼんやりと世界が、俺の手元だけに色彩を取り戻した。
あつそー、と軽口を独りごちてみる。実際、とんでもなく熱いのだろう。
俺の猥雑な負の念が込められた火で炙られたものなのだから。

「…じゃ、いっきますかー」
存分に熱を孕んだ刃が、痕の付いた頬の皮膚を焼いた。
じゅうっという肉の焦げる音、今は微塵も食欲をそそらないけど、帰ったら旨いものを食べて眠り続けたいと思った。
本能は己の攻撃を回避しようと反射作用をもたらし、小さな業火から逃げようと身を捩るが、俺の稀少な人間的部分が何とか そいつを押さえ付けてくれた。
この肌を焼き、あの人の匂いを消すことで、自分にはまだ生きる権利があるのだと、誰かに励まされたように思える。

数分経った頃に、俺は刃を退けた。痛みが握力をも奪い、放したと同時に短刀は森の中に呑み込まれてしまった。

「っ…ぐ…ぅ…っ…はは…思ってたより、いけるもんだね」

がちがちと歯が鳴る。余熱がどんどん皮膚を侵食していく。ああそれでいい。
情に駆られた無様な証拠など細胞核までぶっ壊れて仕舞え。道具の錆は落とせば支障など出ないだろう。
綺麗に磨いてやすりをかけて、必要なら上塗りをして、修繕すれば何とでもなる。

だから考えるな。いつか全部が錆び付いて、使えなくなって、要らなくなってしまうときのことなんか。
思い出すな、あの人のことなんて。

もう一つ短刀を取り出して、俺はまた火を点けた。目立った錆を落とすために。
















「さ…佐助!?その顔はどうした!」

上田に帰着するといの一番に真田の旦那が駆け寄ってきた。
日も白み始めたばかりの明け方で、流石にまだお目通りはしないだろうと踏んでいたが、誤算だった。
主はどんな小姓よりも早く起き、鍛錬に励んでいた。

「いやぁ、山賊風情に襲われちまって…不覚不覚」
「…その痕は焼きごてではないのか?何と、あざといことをするものよ…!」

彼はぎりと歯噛みし、幻想の山賊どもに憤りを露わにした。 もし彼らが実在すれば八つ裂きにされていてもおかしくない。

「…大方、狼藉を見咎めてのことであろう。佐助、お前は優しすぎるぞ」

説教よりも苦しい言葉に、俺は上手く笑えなかった。
普段なら、気合いが足りん、とか叱咤するところじゃないのかよ。
どうして今日に限って、こんな惨めな朝に限って、嘘と其れに付随する傷を抉るようなこと。

俺様が優しいって?何言ってんの旦那。敵国の重臣に情報のためでも何でもなく、ただ自分の欲だけで会いに行って、 身体の外も中もしっちゃかめっちゃかに引っかき回されて、それに応えて女みたいな台詞と喘ぎ声出して、しかもだよ、 俺の頭ん中まで見透かされて操られて、それでも俺は未だ彼の男に抱かれたい愛されたいって思ってるんだよ? それ全部旦那には隠してさ、素知らぬ顔でどっかの誰かに責任擦り付けて飄々としてるんだよ?ねえ、それでも俺って 優しいの?何でどうして俺をそんなに買いかぶるの?
ああもう全部言っちまおうか、そんで身の毛も弥立つほどの恐ろしい拷問に掛けられる方がまだずぅっとマシってもんだぜ。

「佐助…!?」

手当を、と数歩先に歩いていた旦那が何故か振り返って驚愕していた。
あれ、痕やっぱりバレちゃったかな、旦那吃驚するほど視力いいからなぁ、なんて考えていると、俺様の健康な方の頬が 濡れているのにはたと気付いた。
生まれてこの方流したことなどないと自負していた涙とやらが、俺の意志を無視してぼろぼろと渓流のように湧き出てきていたのだった。

「そ、そんなに痛むのか!?すぐ、すぐ誰かに匙を持たせ…」
「違う…違うんだ、だいじょぶ、ごめん…旦那…ごめんなさい…」

旦那、旦那、あんたの方だよ、優しすぎるってのは。
目の前の従者が手酷い裏切りを行っているだなんてちらりとも思いつくことのできない、優しすぎて純朴すぎる、 あんたは武将失格だ。
俺なんぞのためにそんな辛そうな顔しないでよ。あの竜の半身みたいに、人に在らざるような温度のない死んだ瞳で 見下して蔑んでよ。本来ならあんたがそういう目をして呉れるべきだ。

「旦那…ごめんなさい…旦那っ…」
「何故謝る、佐助、もうよいから泣き止んでお呉れ…お前の泣き顔なぞ初めてで、如何すれば良いのかわからぬ…」

ねえ、こんな俺でもいいならどうか殺してくれ。この場で息の根を止めて、思考も感情も感覚も葬り去って下さい。
二度とあの人のこと考えないでいいように。二度と思い出さないように。
そしたら今度こそ、旦那だけの忠実な忍に成れるよ。旦那だけしか見ない、旦那のことしか考えない、喩え旦那が誰を見ようと 考えようと関係なく。きっと今この瞬間なら、旦那のことで身体中一杯な今なら、そうなれるんだ。
まるで最初から何にも起こらなかったみたいに、全部真っ白に戻せるんだ。
だけど旦那はきっと俺の望むことはしない、ただ心配して傷の手当てをしてくれて、身体の傷も見せろと言ってくれるけど それを俺はかたくなに断って、不意に香る竜の匂いに性懲りもなく同じ過ちを繰り返すだろう。
この先死ぬまで何度も旦那に殺してくれと懇願することになるだろう。

ごめんなさい、旦那。俺をけして許さないで。竜の尾に巻き取られて身動きの出来ない忍を、どうか、けして許さないで。







右目は男の風上にもおけない男だったらいいのにというマゾ的願望